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小さなコラム「人を憎むのではなく、愛すること」

 この世に生を受けて誕生したほとんどの人は、生まれた時から、傷つけられたり、傷つけたりしようと願う人はいないでしょう。すやすやと眠る赤ん坊の顔を見ると、この子が誰かを憎むことは考えられないと、思います。ところが、赤ん坊が成長し、社会の一員として成長していく中で、さまざまな影響を受けて、自分とは違うところがある人に対する偏見を持つことがあります。

 一人の人が、だれかを傷つけることは許されないと思っていても、これが、社会の中の大きなグループになればなるほど、その感情が薄れ、国の規模になると、戦争をして相手を傷つけてもよいと思ことが、歴史の中で繰り返されてきました。そういう思いが浮かんでくることは、とても悲しいことです。

 しかし、聖書には、イエスさまがこのように言われたことが書かれています。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42 )

 私たちが、社会の中の大きなグループに対して敵意や憎しみを感じた時、イエスさまが言われた言葉を思い出してみましょう。自分と他人に違いがあっても、人が人を愛する気持ちは、神さまから与えられた恵みとして、必ず持っているはずです。他人の暴力を見て、暴力で立ち向かおうとしてはいけません。そうではなく、どうすればイエスさまがわたしたちを愛してくださったことに、お応えすることができるかを、祈り求めて行くことが、キリスト者に問われていることではないでしょうか。 主イエスが十字架の上で死に至るまで、私たちを、しかも主イエスを憎むものさえ愛してくださったことを、決して忘れてはいけません。

小さなコラム「人は何で生きるか」

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 マタイによる福音書4章4節
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」 申命記8章3節

 上に書いた聖書の言葉は、非常に有名な言葉です。では、だれがこの言葉を言ったでしょうか? 福音書の言葉は、イエスさまが言われた言葉だと、多くの人は気が付くでしょう。では、申命記に書かれている言葉は誰の言葉か? 申命記は、モーセが自分の命が終わる前に、イスラエルの民がこれから約束の地、カナンに入る前に残した言葉として書かれました。つまり、申命記の言葉はモーセが残した言葉です。モーセは、イスラエルの民が40年の間、シナイの荒れ野を旅した時、神さまが天から与えてくれた食べ物(マナ)を取り上げて、これは、口から入って生命をつなぐものであった。そして、それは、神さまが与えるものが、人の生命をつなぐものであることを教えるためであったと言っています。
 わたしたちの身体を生き続けさせるためには、栄養となる食べ物が必要です。そして、神さまからその身体にいただいている「霊」。「魂」が必要とする栄養は、主の言葉。聖書の言葉であると言えるでしょう。

 いつの時代であっても、困難な状況から救い出し、希望と力を与えてくれるのは、主の言葉。聖書の言葉です。一日、一日、主の言葉を読み、その言葉に示されている神さまの愛、憐れみ、罪の赦しを受けて、生き生きと生きる者とさせていただきたいと願います。

今週のみ言葉「私たちを照らすもの」

「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり あなたの神の御手の中で王冠となる。」         イザヤ書 62章3節

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」
              ルカによる福音書 24章32節

 「心が燃える」時とは、どんな時でしょうか? 人は、恋をすると胸が苦しくなることがあります。それは、相手を思う心、愛する心が芽生えるからではないでしょうか。
 神さまは、モーセに十戒を与えるとき、御自身は「熱情の神」であると言われました。私たち人間を愛する熱い思いを持っておられるということです。
 そして、神さまの栄光は、光にたとえられています。光は明るく、また、熱いものです。神さまの栄光を現す光は、暗闇を照らし、暗いものを押し出し、悪を退けます。主の正しさが、この世に大きな力として示されます。

 主イエスの復活の出来事は、まさしく、主なる神さまの正義が、栄光がこの世に光として指し示された出来事でした。この光は、14世紀にヨーロッパでペストが大流行したときも、今、新型コロナウイルスが広がっているときも、決してその明かりが消えることはありません。
 暗闇の中を歩くとき、光が導き手となるように、わたしたちは、神さまから与えられている、光によって。主イエス・キリストの復活の光に照らされたて、このとても不安な状況の中にあっても、日々一歩ずつ、主のみ言葉を生命の糧として、歩みつづけたいと思います。

「救いが告げられた」2019/12/16

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた」 イザヤ書 52編7節

「わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
         ヨハネによる福音書 7章29節

 イザヤ書52章に書かれている「良い知らせ」は、口語訳聖書では「よきおとずれ」となっていました。この言葉は、ヘブル語の「おとずれる」という動詞を訳したものですが、その単語には、「喜び」という意味も含まれていました。この言葉は、新約聖書のギリシア語で「エウアンゲリオン」[福音]という言葉になります。
 ギリシア語の「エウアンゲリオン」は、「良い知らせ」というだけでなく、「戦勝の知らせ」の時に使われましたので、聖書において、神さまがこの世に来てくださり、私たちの王となられた。私たちの罪そして、悪に勝利されたことが告げられたという意味へと変わっていったのです。

 古代において、戦勝のしらせは、使者が勝利した街に走って行って、高いところから人々に告げ知らせました。その使者は、戦いに勝利した将軍から遣わされましたが、イエスさまは、父なる神さまから遣わされ、この世の罪と悪に勝利されたことを告げるために、私たちのところへと遣わされたのです。クリスマスは、その勝利宣言の始まりでした。その後、十字架での受難を経て、死から復活された主イエスこそ、私たちにとって、平和の使者、福音を告げる方、私たちの王となられたのです。

「父から遣わされた方」

「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」         列王記上 22編14節

「わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」
       ヨハネによる福音書 5章36節

 イエスさまが、私たちに福音を教えてくださった時、「言葉」と「業」とによって示されたと、聖書にあります。「言葉」とは、イエスさまが話された言葉そのものを言っているのと、旧約聖書に書かれている救い主、メシアに関する預言を使って、福音を告げられました。また、「業」とは、イエスさまが病人を癒やし、悪霊を追い出し、嵐を静める等、「奇跡」と呼ばれている出来事を指しています。
 イエスさまは、神さまでありまた、人でもありましたので、イエスさまが語られた言葉そのものが、神さまの言葉。あるいは、父なる神さまから託された言葉でした。また、「業」も神さまによって行われた出来事でした。
 イエスさまが復活されて天に昇られたあと、私たちはイエスさまを直接見ることはできません。しかし、毎週日曜日礼拝で語られる説教は、神さまから預けられた言葉を牧師が語り、礼拝の中に共にいてくださる聖霊なる神さまが、私たちの信仰をより深く、豊かなものへとしてくださるのです。
 旧約聖書に登場する預言者たちは、聞いた時、よいと思うことも、悪いと思うこともすべて神さまから託された言葉を語りました。そのことが、神さまによって選びだされ、神さまに仕える者としてなすべきことであったからです。わたしたちも、礼拝で語られるみ言葉は、神さまから託され、与えられ、私たちに希望と力を与えるものであると信じて、礼拝を大切に守りたいと思います。

「後から来られる方」

「わたしは来て あなたのただ中に住まう」                ゼカリヤ書 2編14節

「その人はわたしの後から来られる方」
          ヨハネによる福音書 5章36節

 お迎えに行かなければ来ない人と、待っていても来てくれる人のどちらを、あなたは好きになるでしょうか?
 突然こんなことを聞かれたら、どういうことだろうか? と思ってしまうのではないでしょうか。
 じつは、これは、この世の中で神さまとよばれている方のことについて聞いています。日本の神社に祭られている神さまは、年に一度は、お神輿に担がれて、待っている人のところへつれていかれます。また、お寺で祭っている仏は、お寺に行くか、うつし身といって、同じ仏の像として作った仏像を持ち帰ることで、必要としている人のところに来ます。

 ところが、一切像を作ってはならないと言われた、私たちの神さまは、神さまを信じる人のところへ来てくださる方なのです。イエスさまがこの世に生まれる前は、エルサレムにあった神殿に神さまがおられると信じられていましたが、イエスさまがお生まれになったことで、神さまが人となって私たちのところへと来てくださいました。
 わたしたちはだれでも、行動できる範囲を限られたり、してもよい行動が制限されたら、不満を持ったり、不安になったりします。ところが、わたしたちの神さまは、私たちを救うために、人となられました。神さまとしての権限、力の行使を後回しにしてでも、私たちのところへと来てくださったということ。
 そのことに、神さまの愛が示されています。

「神さまが見せる幻」

 この世の中で、自分が住んでいる国と仲の悪い国が、武力を高めるためにたくさんの武器を準備しているとき、対抗しなければならない自国はどうするでしょうか。おそらく自国の武器をたくさん買って、相手が簡単に攻め込んでこないようにと考えるのではないでしょうか。

 旧約聖書には、イスラエルと周辺の国々が何度も戦ったことが書かれています。多くは、勝った、負けたということですが、列王記下6章には、預言者エリシャがイスラエルの敵アラムを、神さまが準備された軍で追い払ったことが書かれています。
 ドタンという町にエリシャと彼の従者がいた時、イスラエル軍に神さまからの指令を伝え、イスラエル軍を有利に導いていたエリシャを捉えようと、敵アラム軍がやって来て、町を包囲しました。
 すると、エリシャは神さまに祈り、従者の目を開くようにお願いしました。神さまがその願いを聞いて、従者の目を開いたところ、通常では見えるはずのない神の軍隊が、エリシャたちを囲って守っていることが見えたのです。
 エリシャと従者の周りを、火の馬と戦車が囲んでいるのが見えました。そして、その数は敵の数よりも多かったのです。
 さて、神さまが準備された軍はその後どうしたでしょうか?敵のアラムを倒しに出陣したでしょうか?
 いいえ、そうではありませんでした。神さまは、エリシャを用いて、敵の軍を欺き、別の町へと移動させ、イスラエルと直接戦わないようにされたのです。
 その様子を見たイスラエルの王はエリシャにたずねました。
 「わたしの父よ、わたしが打ち殺しましょうか、打ち殺しましょうか」
 イスラエルの王の目に映っていたのは、敵であるアラムが神さまの計画によって追われた時、今こそ、敵を倒す機会だということでした。
 ところが、イスラエルの王から問いかけを受けたエリシャは、思いも掛けないことを話したのです。
 「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
 神さまは、イスラエルの王に戦いを命じるのではなく、敵をもてなすための宴会を開かせ、敵が食事に満足して、国へ戻り、二度とイスラエルを攻めようとはしなかったのです。

 この話を聞いて、これは単に聖書の中だけの話しと思うでしょうか?
いいえ、今この世において、国と国が、人と人が考え方の違いから、敵対して対立し、武力で争おうと考えた時、武力を使わない解決方法があるのだということを、私たちは思い描かないといけないでしょう。
 私たち、神さまを信じる者がなすべきことは、神さまに祈り、神さまから示される解決方法。武力によらず、問題を解決する方法を願い求め、与えられた方法で和解し、神さまのみ心にかなう道に進むことが私たちに求められているのだと思います。

 多くの国が、自分たちの国のことだけを、いえ、自分のことだけを考えようとしている時こそ、神さまに解決策を求め、互いに愛し合うべき存在であることを覚えて、国と国が、人と人が共に暮らすことができる世の中を求めて行くべきではないでしょうか。
 その答えが、聖書の中にあると思います。そしてなにより、敵をも愛し、敵から十字架につけられた時でも、敵を許された主イエスの愛に私たちは、ならいたいと思います。

十字架上の七つの言葉 Ⅱ

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」         ルカによる福音書 23章43節

 二つ目の言葉は、主イエスが十字架の上で話された言葉の中で、唯一、呼びかけに対する応答として語られた言葉です。

 主が十字架に架けられた時、二人の罪人が主の両側で共に十字架に架けられました。二人とも重い罪を犯した罪人でした。この二人が死を目前にした時、一人は主イエスがメシアであることを聞いて、主イエス自身と自分たち罪人を救えとののしりました。彼の言葉は、主イエスをまことの救い主として信じていない心から出た言葉でした。

 ところが、もう一人の罪人は、自分たちはやったことの報いを受けているが、主イエスは何も悪いことをしてない。ただ、「あたなの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。二人目の罪人は、死を目前にして、主イエスを救い主として信じる心からこのことを言ったのです。
 すると、主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と応えられました。

 罪がある者であっても、心から主イエスをメシアと信じ、告白する者には、罪を赦してくださり、主イエスと共に主なる神さまのご支配の中に迎えてくださるということ。そのことを主イエスは十字架の上で語られたのでした。