今週のみ言葉「主の声が響く」

「わたしは勝利を告げ 大いなる救いをもたらすもの。」 
                   イザヤ書 63章1節 
「子たちよ、何か食べる物があるか」
              ヨハネによる福音書 21章5節
  
 舟の上で漁をしていたペトロたち。陸におられたイエスさまから声を掛けられました。初めは声を掛けた人がイエスさまだとは気が付かず、声を掛けられたように自分たちの仕事の続きとして網を湖に打ちました。ところが、弟子の一人から、あの人は「主だ」という言葉を聞いた途端、ペトロに掛けられていた言葉がイエスさまの言葉として心に響いてきました。すると、ペトロは自分が主イエスの裁判の夜、三度もイエスさまを知らないと言ったことを思い出し、ハッとして、あわてて上着を着て湖の中に飛び込んでしまいました。
 ペトロの行動は、気が短くおっちょこちょいの性格を表しているようですが、エデンの園で主が近づいてこられたとき、身を隠してしまったアダムとエバの様子と重なります。主の声が響くとき、わたしたちは、自分がどういう者であるかを知らされ、主を畏れる自分に気が付きます。
 会堂でも、家庭でも、礼拝を守るときはいつも、主からの呼びかけがあり、それにお応えする私たちがいなければなりません。礼拝のプログラムはそのように整えられています。 礼拝は、まず、心を静めて神さまからの呼びかけを聞くことから始まります。そして、それに応える形で、讃美歌があり、祈りがあります。また、聖書の言葉、説教の言葉を通して主が語ってくださいます。主の語りかけがペトロの心に届いたように、わたしたちの心にも響いてくるように、祈りつつ礼拝をお献げいたしましょう。
 そして、今週も主の招きと導きに従って歩む一週間でありたいと願います。

2020-04-19 今週のみ言葉

「主はわたしの力、わたしの歌 主はわたしの救いとなってくださった。」               出エジプト記 15章2節
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」    ヨハネによる福音書 20章31節
 
 旧約聖書と、新約聖書。どちらにも共通して書かれている主題は何でしょうか? それは、この世界を創られた「神さまによる救い」です。神さまは、この世界を「よい」ものとして創られたと、創世記1章に書かれています。その世界で、神さまが特別に愛し、また、愛された者が神さまを礼拝するように創られました。しかし、人間は罪を犯し、罪の結果としての、死を迎えることになりました。
 神さまはそのことをとても憐れまれました。自らの力では罪の奴隷から抜け出すことのできない人間を、神さまの手によって救われようとされました。旧約では、奴隷生活を送っていたエジプトから、約束の地、カナンへの脱出。また、バビロニアからの解放と、約束の地への帰還。この出来事を通して、神さまはイスラエルの人々に、神さまの救いを告げ知らせました。
 けれども、人間は弱く、繰り返し罪を犯し続けましたので、神の子主イエス・キリストをこの世へと送られました。その方の命によってわたしたちの罪を赦し、神さまのところへ呼び戻すことを実行されたのです。
 聖書の文字を書いたのは、私たち人間ですが、「十戒」の言葉が、神さまから与えられた言葉であるように、聖書全体の原作者はこの世界を創られた神さまです。原作者がお一人であるから、聖書の言葉に含まれる神さまの愛、救いの計画と実現は、一貫しています。
 どのような時代にあっても、神さまの愛と救いが変わることがないことを覚えて、新しい一週間を歩んでまいりましょう。

2020-04-12 今週のみ言葉

 「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」     イザヤ書 55章11節
 「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。」
              ルカによる福音書 22章26節
 
 墓の中から復活されたイエスさま。マグダラのマリアは、復活されたイエスさまが自分の後ろに立っておられても、その方が、イエスさまだとは、気が付きませんでした。マリアが、イエスさまが復活されたことを確信し、信じたのは、イエスさまから「マリア」と声を掛けられた瞬間でした。

 わたしたちは、自分以外の人が声を出す時、自分の名前を呼ばれなければ、気が付かないことがあります。アメリカの住宅地で夜間、殺人事件が起きた時、「助けて!」と声を出した女性の叫びを、自分が呼ばれていないと思って、警察に通報しなかった結果、その女性が死亡するという事件がありました。この時、襲われた女性が、その近くにいる誰かの名前を呼んでいたら、警察への通報がなされ、一命を取り留めたのではないかと言う、評論家がいます。
 相手の名前を呼ぶことは、その人の心に向けて呼びかけることでもあります。イエスさまは、復活された時、マグダラのマリアの心に向けて、「マリア」と呼ばれました。その言葉は、神さまからの呼びかけであり、復活された方の言葉でしたので、マリアは、その瞬間、すべてを理解し、イエスさまが復活されたことを言葉と目で見ることで確信しました。

 復活の出来事は、わたしたちが神さまと出会うことです。礼拝に招かれた時、神さまからの呼びかけがあり、わたしたちの心が、その呼びかけに応えるということが、大切なことなのです。

2020-04-05 今週のみ言葉

 「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。」   
              申命記 32章46節~47節 
 「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」
              ルカによる福音書 22章26節
 
 イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセと、弟子たちを通して福音の言葉を語られたイエスさま。どちらも、この世での死を迎える前に、残される人々に向けて言葉を残しました。一人の人が、人生の最後に残す言葉は、どのような言葉であっても、人々の心に残る言葉が多くあります。そして、モーセはイスラエルの民をエジプトで奴隷であった状態から救い出したリーダーとして、イエスさまはすべての人を救うメシアとして残された言葉。
 それは、どちらも、その言葉を聞いて従う人々を、命へと導く言葉でした。律法とイエスさまの教え。どちらも、自分の力だけで、生涯やり続けようとしても、続けることができないほどきびしく、正しい教えです。しかし、その言葉を守るべき教えと捉えるだけでなく、教えを守ることができない自分があり、その自分を赦してくださる神さまがおられることに気が付くことが大切です。そして、気が付くだけでなく、その教えに従って歩むことができるように、願い、祈り続けること。それが、神さまからわたしたちに求められていることだと言えるでしょう。
 神さまの愛に触れて、そのことに気が付く者でありたいと願います。