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すべてを見ておられる神さま

聖書 旧約 イザヤ書 51章4節~8節
   新約 ルカによる福音書 12章1節~12節

 みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。

 イエスさまが、ファリサイ派の人の家での食事に招かれ、その席でファリサイ派の人々と律法の専門家たちを非難し、その家から出られた時。数えきれないほどの群衆が集まってきたと、ルカは告げています。
 ユダヤの人々にとって、自分たちの生活に密着して、権威を持つと考えていたファリサイ派の人々や律法の専門家たちを非難する先生とは、どういう人だろうか? あるいは、イエスさまが非難した人々の偽善を見て、ふだんからイエスさまと同じような思いを心の中に抱いていた人たちが、たくさんイエスさまのところに集まってきたのかも知れません。
 一体何人の人がその場所に集まってきたのか、ルカは書いていませんが、どういう場所であったにせよ、「足を踏み合うほど」人がイエスさまの周りを取り囲んだということは、イエスさまに対する人々の関心の高さを示す出来事でした。

 それほどまでに人々が押しかけてきた時、イエスさまはまず弟子たちに話し始められました。1節、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
 イエスさまが、ファリサイ派の人の食事の席に招かれた時、おそらく12人の弟子たち全員が一緒にその席に出かけたのではなかったでしょう。数名の弟子はイエスさまと一緒にその席にいたかもしれませんが、全員は同席していませんでした。
 そこで、イエスさまは、ファリサイ派の人々に向けて語られたことを別の言葉で、弟子たちに話し始められました。
 パン種とは、パンを焼く前に小麦粉に混ぜる酵母菌のことで、発酵することでパン生地を膨らませます。
 新約聖書の中で、パン種という言葉が語られる時、良い意味でも悪い意味でも使われています。今日の箇所では、悪い意味で使われています。
 パン種が発酵する様子から、「腐敗」というイメージで捉えて、イエスさまは、ファリサイ派の人々の言葉、行動が「偽善」であると言われました。
 偽善の言葉を語り、偽善の行いをする人は、そのことが周囲の人々から見られたとき、偽善であることが分からないようにしようとします。けれども、神さまから見られると、それが偽善であることはすぐにわかります。 また、偽善にはどこか矛盾があり、やがて周囲の人々にも彼は、彼女は、偽善の言葉で話し、偽善の行いをしていると分かってしまうのです。

 しかし、イエスさまが1節から3節で、弟子たちに語られたことは、単に良く取り繕って見える「偽善」のことだけではありませんでした。3節に、「あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」とあります。主イェスを自分の先生として従い、神さまから遣わされたメシア。救い主と信じるようになった人が、この世の中で、神さまを信じない人々からつらく当たられたり、迫害を受けたりした時、イエスさまから教えられたことを隠すことはしていませんか?と、イエスさまが言っておられるのです。
 福音書を書いたルカは、ルカが属していた教会の人々にこの福音書を読んでもらいたいと思って書いています。そして、ルカが教会で信仰生活を送っていた頃、ユダヤ人だけでなく、ローマからも、キリスト者に対する迫害が始まっていました。
 そこで、キリストを信じて、信徒となった人が、福音の教えを誰にも聞かれないようにと考えて、こそこそと語るのではなく、人々の前で明るいところで語り伝えていくべきだ、ということをイエスさまの言葉によって伝えているのです。

 イエスさまは、弟子たちにファリサイ派の人々の教えに注意しなければならないと教えた後、今度は、「友人」と呼び掛けた、イエスさまの周囲に集まってきた群衆に向けて話し始められました。
 4節。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」
 私たちに与えられている生命は、70、80年。長く生きても100歳過ぎぐらいまでしか生命をつなぐことはできません。
 けれども、この世での生を終わった後、神さまの御手の中に置かれる。神さまの御支配の中に永遠に置かれると考えるなら、この世での短い時間のことよりも、この世での生を終わった後、永遠に続く神さまの御支配のことを考えなければならないと言うことは、容易に想像することができるでしょう。

 イエスさまはここで、2つのことを言っておられます。一つ目は、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」を恐れなさいということ。
 この世での生を終えた後の人を、私たちは、この世にいてどうすることもできません。既に肉体と魂を失った人を、私たち人間がどうこうすることはできないのです。
 では、誰がその人に影響を与えることができるのか?
 それは、この世界を創られ、私たちの世界、そして、この世での生を終わった後も支配されている神さまだけが、そのことに関与することができる方であると、イエスさまは言われているのです。

 聖書の中で、取り上げられる、私たちの生命が終わった後のことについての記述。それは、一人ひとりがどうなるかと言うことよりも、この世の終わりに、裁きを行い、また、裁きの結果救いへと招かれる方が来られる時のことが、黙示と呼ばれる文書の中に。新約聖書ではヨハネの黙示録や、福音書の中で語られています。
 その預言は、日本の仏教で語られている、生前の行いに応じて報いを受け、極楽又は地獄に行くということではありません。
 ただ、神さまの憐(あわ)れみ、恵みによって選ばれた人たちが救いに与(あずか)ることができる、ということです。
 人間がこの世で生きている間に行った良いことや悪いことの評価で、将来が決まるとは言われていないのです。
 しかし、だからといって、この世で何をしてもよいということではありません。
 神さまからの呼び掛けに応えて、神さまから信仰をいただき、神さまに従って歩むこと。そのことを、神さまからの招きに応えて歩むことができた人は、確実に、この世の終わりの審きの時に、神さまのもとへと招かれると預言されています。

 6節で書かれている5羽の雀。当時、ユダヤの人々は、食用に雀類の小鳥を食べていたようです。そして、二アサリオンという値段は、今のお金に換算すると十円程度の価値です。
 日常生活の中で、十円で何かを買えるかというと、ほとんど買えるものはありません。それほどまでに、価値のない小鳥であっても、その命を神さまが忘れることはなく、マタイによる福音書では、神さまの許しがなければ、小鳥の命が取り上げられることはないと言われています。

 そして、小鳥よりもはるかに価値があると、私たちが考えている人間について。神さまは、私たちが互いに知っている関係以上に、私たち一人ひとりのことをご存知で、一人ひとりの髪の毛の本数までご存知であると言われています。
 イエスさまが、髪の毛をたとえとして言われたのは、当時のユダヤ人たちが、人の力は髪の毛に宿っていると考えていたからかもしれません。
 旧約聖書に登場し、怪力で知られているサムソンという人物は、母親が子どもを授かる前から神さまに祈り、生まれてきた子どものサムソンを神さまに献げ、神さまに仕える人として育てられました。そして、神さまにその生涯を献げた人は、神さまからいただいた力を失うことがないように、髪の毛を切ることをしませんでした。
 そのことをユダヤ人たちはみな知っていましたので、髪の毛の本数のことを言われたのかも知れません。
 そして、神さまがいつも見ていてくださる私たちは、少しの額のお金で売り買いされている雀よりもはるかに値の高い者であるから、神さまは私たちのことをおろそかにはしないのだと、イエスさまが言われたのです。
 髪の毛の数まですべて知っておられるということは、すべての人の人生を、この世に生まれる前、お母さんのお腹の中にいるときから、この世での生を終わるまで、すべてご存知であるということなのです。
 私たちが、すべてを知っておられる方の前に出なければならないなら、私たちはどうすれば良いのでしょうか?

 さて、それらのことを語られた後、イエスさまは、こう言われました。
 8節。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」
 イエスさまが、伝道活動をされていた時、ご自身が伝えておられたことは、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい。」ということでした。
 神さまがこの世を御支配される時は既に来ている。そして、神さまがこの世を裁かれる時が、日々近づいている。だから、私たちは自分自身の罪を悔い改めて、神さまを信じなければならない。イエスさまが、福音と言われている、主イエス・キリストの十字架の死による罪の贖(あがな)い、永遠の生命に至る道。これを信じなさいと。
 そのことを自分は信じ、また、多くの人に伝え、伝えていると公に告白する。 そう表明する人は、「人の子」と言う言葉で、ご自身を示されたイエスさまは、十字架での死の後、復活され、天に昇り、私たちがこの世での生を終えた後、神さまの御手の中に迎えられる時、私たちをイエスさまの仲間であると。神さまを信じてこの世での生を送った人であると、言ってくださると言われています。
 言い替えるなら、私たちが神さまの前に呼び出されたとき、イエスさまが私たちのことを弁護してくださるということです。

 しかし、この世で神さまからの呼び掛けに応えて、神さまを信じる信仰を与えられることがなかった人は、この世での生を終えた後、神さまのところに呼び出されても、イエスさまはその人を知らないと言われ、私たちの将来は何も約束されていないのだと言われます。

 また、10節の言葉。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」
 この言葉の意味は、よくよく確かめて聞かないと、非常に分かりづらいものになっています。
 なぜなら、キリスト教で、父なる神さま、子なるキリスト、聖霊なる神さまはみな、一つの神さまであると考えているからです。
 その理解で読むと、神さまの子であるイエスさまの悪口を言う人は赦されるけれども、聖霊なる神さまを冒瀆する者は赦されないと聞こえてくるからです。

 では、どのように解釈すれば良いのでしょうか?
 はじめに、人の子と言われているイエスさまの悪口を言う者。この人は、イエスさまが神さまから遣わされた方であることを、まだ知ることができていない人を指しています。まだ知識において、信仰においてイエスさまのことを知らない場合、イエスさまに対する悪口を言っても、神さまは赦(ゆる)してくださるだろうということ。

 それに対し、聖霊を冒瀆する者とは、イエスさまが復活の後天に昇られ、この世に作られた教会で、聖霊の働きを信じず、礼拝に集まる時、神さまを拝む姿勢さえ繰り返していれば救われると思っているなら、それは神さまが建てられた教会を侮辱し、教会の存続が成り立たなくなってしまう。
 その理由から、この世の教会を建てくださる聖霊の働きを信じないで、冒瀆する人の罪は赦(ゆる)されないと言われているのです。

 また、神さまの霊。聖霊の働きは、私たちの死の後から始まるのではないということが、11節、12節で語られています。
 ルカが書いた福音書を最初に読んだ教会の人々は、教会やキリスト者に対する迫害の中で、福音を語り続けなければなりませんでした。
 イエスさまの復活の後、この世に誕生した教会が、これからもこの世の中に立ち続けるために、イエスさまが語られた福音を証(あか)しし、イエスさまご自身がメシアであることをこの世に対して証(あか)ししていかなければ、地上の教会が大きくなることができません。
 そこで、迫害される人々が、「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたとき」、主イエス・キリストを証(あか)しするために、神さまから降(くだ)される聖霊が与えられ、キリストを信じる人に代わって、証(あか)しする言葉を授けてくれると、イエスさまは言われているのです。

 旧約聖書にある、イザヤ書は、預言者イザヤが人々に伝えた預言が治められています。この書は、少なくても3人のイザヤと呼ばれた預言者たちが預言した言葉だと言われています。
 1章から39章までが、第一イザヤ、40章から55章までが、第二イザヤ、56章から66章までが第三イザヤの預言として区分されています。
 第一イザヤは、主に、人々が神さまに対して犯した罪に対する裁きが語られ、第二イザヤ、第三イザヤは、罪を悔い改めた人々に対する神さまの救いが預言の中心的な事柄として語られています。

 今日読んだ、イザヤ書51章は、罪を悔い改めて、神さまの召しによって集められた人々に対する救いが語られています。
 そして、イザヤが預言したことは、イエスさまがこの世に来られたことで、実現します。51章4節の、「教えはわたしのもとから出る。」という言葉は、イエスさまが語られた言葉が、私たち人間に対する教えとなって与えられ、「わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」という言葉は、イエスさまが、この世の人々に対し、自分の罪を悔い改めようとしない人に対する非難の言葉であり、罪を悔い改めて神さまに応答する人に対する救いの言葉となることで、実現したのです。

 神さまからの言葉、憐(あわ)れみ、恵みは、イエスさまを通して、私たちに具体的に与えられました。そして、それは、イエスさまがこの世におられた時だけでなく、イザヤ書51章6節にあるように、この世がどのように変わったとしても、
 「わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。」ものであるのです。

 神さまの恵みは永遠に与えられるものであり、この世が終わりを迎える時まで、私たちが、神さまからの呼びかけに応え、救いへと招かれる機会を与えています。
 イエスさまが、たとえを用いて非難された人々のようにではなく、神さまの権威を恐れ、神さまが私たち一人ひとりを愛しておられることを知り、聖霊なる神さまの働きを心から信じて従う者となりたいと願います。

 聖霊なる神さまが、今ここに、私たちと共にいてくださる恵みは、イエスさまが十字架に架けられる前、弟子たちを通して約束されていたことであり、十字架と復活の出来事を通して、私たちに与えられている恵みです。

 今週もこの恵みの中を、日々、一歩ずつ信仰の道を歩んで参りたいと願います。

「非難された人々」

聖書 ミカ書 6章6節~8節
   ルカによる福音書 11章37節~54節

 みなさん、おはようございます。

 福音書の中で語られているイエスさまは、伝道の始めから、ファリサイ派の人々や律法学者たちと真っ向から対立していたのではありません。伝道を開始したころ、イエスさまは弟子たちと共に安息日に、ユダヤ教の会堂に行って聖書の言葉を聞き、その後、神さまのことについて人々に話しをされました。
 そして、会堂に集まっていた一般の人々も、ファリサイ派の人たちや律法学者たちも、イエスさまが神さまのことについて話しをしている、ということを認めていました。

 ところが、ルカによる福音書では、野原の説教と呼ばれる、11章のベルゼブル論争のあたりから、イエスさまが説かれている神さまに対する信仰と、ファリサイ派や律法学者たちが人々に勧める信仰との違いが明らかになってきました。
 イエスさまが、野原での説教を終えたとき、ファリサイ派の人から食事の席に招かれたので、出かけて行かれました。
 当時の人々にとって、自分の家で食べる食事に他人を招くことは、その人との関係が親しい者であったり、その人を尊敬していることを表す行為でした。
 当時、聖書に書かれている律法の掟だけでなく、先祖からの言い伝えによる清め。聖別の儀式を重んじていたファリサイ派の人々は、食事を取る前、手を水の中に浸すということをしました。
 これは、聖書に基づくことではなく、先祖からの言い伝えによるものでした。家の外で知らない間に、汚れたものに触れたかもしれないということから、自分をきれいなものにしようとする、人間中心的な、きよめの儀式でした。
 そのことに対し、イエスさまは意識してかあるいは、意識しないでかは分かりませんが、食事の前に手を水に浸して清めるということをなされませんでした。

 その様子を見たファリサイ派の人。おそらく、その人は、イエスさまを食事に招いた、その家の主人と思われますが、神さまのことを伝えるイエスさまが、なぜ、自分を清めるという儀式をしないのかと、不審におもったのです。
 38節で、「不審に思った」とありますが、おそらく、その家の主人であるファリサイ派の人は、イエスさまは本当に神さまのことを伝える人物として、相応しい人であるかどうか、という点に疑問をもちました。
 すると、イエスさまは、彼の心の中を見られて、手を水で清めなかった理由について話しを始められました。
 39節から41節で、イエスさまは、ファリサイ派の人々は、先祖からの言い伝えに固執して、見かけ上、自分自身を清める行いを、神さまの御心に従って行うのでなく、自分たち自身の心の中から生じる思いから、しているのだと指摘されました。
 彼らの心の中にある思いは、「強欲と悪意」だと、39節で言われています。強欲も悪意も人の心の中から出て来るものであり、神さまから与えられたものではありません。
 そして、41節で、イエスさまは、「ただ、器の中にある物を人に施せ。」と言われました。これは、人の心の中にあるものを施せといわれたのではなく、マタイによる福音書23章26節を見ると、まず、自分の内側を清くしなさいとありますから、器の中。心の中に神さまの愛を満たし、そこから出るものを人に施しなさいと言われているのです。
 器の中に相当する、心の中を神さまの愛で満たすなら、心の中だけでなく、外側も清くなると、イエスさまは41節の後半で言われています。

 42節から44節にかけて、イエスさまは、繰り返してファリサイ派の人々が、外見上の行いに捕らわれ、神さまの御心を知ろうとしていないことを批判されました。
 薄荷(ハッカ)と訳されているミントや、芸香(うんこう)と訳されているコヘンルーダは、ファリサイ派の人々が収入の十分の一を献げる献金の一部として誇っていた香草です。
 当時のユダヤ人は、小羊や山羊を神殿で燃やしてその香りを神さまに献げたように、香草を燃やしてその香りを神さまに献げました。
 42節でイエスさまは、収入の十分の一を献げること自体を批判されたのではなく、神さまに何か目に見えるものを献げることよりも、神さまの御心をこの世で行うこと。「正義の実行と神への愛」が大切ですと教えられました。
 43節では、ファリサイ派の人々が、人々から尊敬されることだけに心を向けていることを非難されています。
 そして、44節で言われたこと。「人目につかない墓のようなもの」とは、どういうことか。
 当時、地面の下に納めた墓は、その上を人が歩かないように、歩いて汚れが生じないように、白い石灰をまいて目印としていました。
 ところが、その目印がない墓ならば、誰かが気がつかずにその上を歩いてしまい、歩いた人が汚れてしまうということをいわれたのです。ファリサイ派の人々は、他の人々を汚すようなまねをしているのだという非難です。

 そういったことをイエスさまが言われたので、律法の専門家の一人が、イエスさまが言われたことは、ファリサイ派の人々だけでなく、律法の専門家も含めて侮辱することですよと、反論しました。
 すると、イエスさまは、律法の専門家たちに向けた非難を始められたのです。

 46節の言葉。「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」とは、彼らが、律法の掟を必ず守るようにと言っているのに、自分はその掟を守ることができず、また、掟を守るように助言をすることさえしていないではないか、ということです。

 47節から52節までの言葉。
 彼らが、「預言者たちの墓を建てている」というのは、当時すでに、ヘブロンにある族長たちやヤコブの子らの墓とか、エルサレムにあるダビデ家の緒王の墓に、人々が巡礼していたことを指しています。律法学者たちは、先祖が殺してしまった預言者たちの墓を巡礼することを熱心に奨励していました。
 しかし、熱心に墓の巡礼を勧める律法学者たちは、先祖と同様に、預言者からの悔い改めの呼びかけに少しも聞き従わないではないかと、イエスさまは非難されているのです。神さまからの悔い改めの呼びかけに聞き従わないあなたがたは、先祖と同罪だと言われています。
 そして、自らの罪だけでなく、イエスさまが伝えておられる福音を人々が聞かないように邪魔をしているとさえ、言われているのです。

 これらの、イエスさまによるファリサイ派の人々、律法の専門家たちに対する非難によって、彼らは、イエスさまに対する激しい敵意を抱き始め、この時以降、彼らは、イエスさまの言葉じりをとらえて、何とか反撃したいと思い始めました。
 53節、54節で、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちはイエスさまに対する敵意を持ち始めましたが、この時点では、まだイエスさまを何とか排除しようという思いにまでは至っていません。この後、繰り返しイエスさまとの論争、そして、イエスさまのところに多く集まってくる群衆の様子を見て、彼らはイエスさまをねたみ、何とか排除しようという思いへと変わっていったのです。

 また、ファリサイ派の人々や律法が学者たちに対するイエスさまの非難は、イエスさまだけがされたのではありません。イエスさまがこの世に来られるずっと前、預言者たちも、形だけの、外見上形を整えた儀式だけの信仰は、神さまがよしとはされないと告げていました。
 ミカ書6章6節から8節を見ると、
 6節、7節で、何を持って神さまの前に献げ物とすれば、神さまが喜ばれるだろうか?と、逆説的に預言者が語っています。
 すばらしい子牛をもって行けばいいのか、あるいは、尽きることがないほど多くの雄羊を献げて、その動物の命を献げれば神さまは喜ばれるのか? そして、挙げ句の果てに、自分の子どもさえ献げるなら、神さまは喜んでくださるだろうか?と、自問自答する言葉で語られています。
 しかし、6節、7節のことは、どれも神さまが喜ばれることではなく、8節の後半。
 「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと」こそが、神さまが喜ばれる献げ物であると、ミカは人々に告げていました。
 ファリサイ派の人々も、律法の専門家たちも当然この聖書の言葉を読んでいました。けれども、その言葉を聞いても、彼らは先祖からの言い伝えを大切にして、人が自ら思うように、神さまを人間の側に引きずり下ろして、神さまを拝むことを続けていました。

 イエスさまが、ファリサイ派の人々を非難する言葉の中で、三つのことを言われています。
 一つ目は、律法の詳細な規則に細心の注意を払っている一方で、神さまの正義と愛を無視しているということです。
 どれほど、すばらしく見える礼拝を献げても、また、周辺の国々からすばらしいと見られていた、エルサレム神殿を建てたとしても、神さまの正義を行わず、神さまの愛によって生きることがなければ、形だけのものであり、人が何かをしているという、人間の行為に留まってしまう。
 神さまはそのような礼拝を、祈りを顧みられることはないということです。これは、聖書の時代だけでなく、今を生きる私たちも、私たちの教会も、毎週礼拝を献げる上で、気をつけなければなりません。
 決して、礼拝を私たちの勝手な思いで行うのでなく、神さまの正義が示されるように、神さまの愛があふれるように礼拝を守っていかなければならないのです。

 二つ目のこと。ファリサイ派の人々は、人々が集まる場所で、上座に座ることにこだわり、自分たちのプライドにこだわっている、ということです。神さまの前に進み出る時、私たちは、魂を打ち砕かれて、謙遜な思いで進み出ていかなければなりません。

 三つ目。彼らは、埋められた墓のように人々を隠れて汚す存在となっているということ。私たちの生活、生き方は、神さまによって生かされた生活として歩むべきであって、決して、私たちの生き方によって、他の人が、福音の言葉に、主イエスにつまづくことがあってはいけないのです。


 そして、イエスさまは律法の専門家たちにも三つのことを言われました。
 一つ目は、他の人々には、律法の言葉を守るように命じて、重荷を負わせているのに、自分には免除を求めているではないか。私たちも、聖書の言葉を取り上げて、人に語る時、聖書の言葉によって、他人を裁くことがあってはいけません。聖書に記されているみ言葉は、自分も他人もすべての人を生かす言葉として語られなければならないのです。

 二つ目のこと。死んだ預言者たちをほめたたえているが、その一方で実に彼らを殺すことに同意し、それに手を貸している。
 預言者たちが語った言葉に耳を傾けて、その言葉の中に示されている神さまの愛、神さまの正義を読み解いて、生きることがなければ、ただ、昔の預言者が語った言葉のままで、過ぎさってしまい、預言の言葉は生きた言葉として響いていきません。
 私たちが、聖書を読むとき、その言葉に示されている神さまの愛に聴くことなしに、信仰の道を歩むことはできず、私たちを生かす言葉になってこないのです。

 三つ目。彼らの生活とその教えとの間には大きな矛盾があって、そのことによって人々を混乱させているということ。

 日曜日には教会の礼拝に出席するけれど、それ以外の日は、この世の基準に従って、あたかも神さまを忘れたかのような生活をしてしまう。私たちは、決してそのような生活に埋もれてしまってはいけないのです。
 週の初めの日曜日に神さまから与えらるみ言葉によって、その一週間を生き生きと生きる。そのように、礼拝で語られるみ言葉が生活の中で輝かなければなりません。
 とはいっても、普段の生活のいそがしさや、苦しさに追い回されると、そうは言ってられないと思うかもしれません。
 確かに、二十四時間、神さまのことを思い続けなさいと言っても、絵に描いた餅で、人間である以上、だれもそれをすることはできないでしょうし、そうしなさいと言うことは、律法の専門家と同じことになってしまいます。
 では、どうすれば良いのか?

 一つの例を上げるなら、礼拝で聞いた聖書のみ言葉の一節。あるいは、ご自身がその週に読んだ聖書の言葉の中で、心に響いた一つのみ言葉。そのみ言葉を、その週の間、繰り返し、ご自分の心の中で繰り返し口ずさみ、神さまから与えられた言葉として大切に過ごしてみるのはいかがでしょうか?
 聖書に書かれている言葉、イエスさまが語られた言葉。どれも聖霊によって導かれて、文字に書き留められた言葉です。その言葉の一つを自分の生活の中で、その週の糧として、繰り返し口ずさみ、その言葉に示された神さまの愛の中に生きるなら、その人の生活は、主イエスを証しする生活となるはずです。

 ミカ書6章8節に記された主のみ言葉。
 「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

 このみ言葉を、今週のみ言葉として、歩んで行きたいと願います。

99匹と1匹の羊

 みなさんは、99匹と1匹の羊のたとえを聞いたことがあるでしょうか?
 イエスさまが、大勢の人々に神さまのことを話していた時、その場にやって来た子どもたちを、弟子たちが追い返そうとしました。
 イエスさまに従っていた弟子たちは、その時、とてもいそがしくて疲れているイエスさまが、これ以上、子どもたちによってわずらわされないように、という思いだったのでしょう。
 ところが、イエスさまは、子どもたちを帰そうとした弟子たちに注意され、子どものように小さなものを、軽く見てはいけないと言って、有名な羊のたとえを話されました。

 羊のたとえは、百匹の羊を持っている人がいて、その中から、1匹の羊が迷い出ていなくなったら、持ち主は残りの99匹を山に残したまま、迷い出た1匹を探しに行くにちがいないという話しです。

 経済的な物の見方なら、1匹の羊より、99匹の羊の方が大切なはずです。けれども、私たちを愛してくださる神さまは、神さまのところから迷い出た 1匹の羊を探し出して下さり、見つかれば大喜びされると言わるのです。
 迷い出た1匹の羊は、小さい者をたとえていますが、この世で苦しみ、悲しみを感じている人のことだけではありません。普段生活をしていて、何も困ることはない、特別の不足も感じていないと思っていても、この世界を創られた神さまのことを、心に思い描かない人も、神さまから見ると、この  1匹の羊にたとえられているのです。

 この話しについて、興味をもたれた方、もっと詳しく知りたいと思われた方は、ぜひ、宇都宮東教会へお越しください。あなたが来てくださることを、心からお待ちいたしております。