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小さなコラム「終末主日を迎えました」

 今日(11月22日)は、終末主日です。教会の暦で一年の一番最後の日曜日です。イエスさまが再び私たちのところに来てくださり、完全な神の国が実現する時は、だれにも知らされていません。けれども、その時がいつかを心配するのではなく、いつその時が来ても、あわてることがないように準備をしていなさいと、イエスさまは教えておられます(マタイ24:29~44)。
 終末主日は、一年の終わりを憶えると共に、この世の終わり、イエスさまが再び来られる時を憶える日でもあります。この世が終わる時は、人々のうわさによって知らされるのではなく、私たち主イエスを信じる人々には、そのしるしがはっきりと示されますから、心配することはありません。そして、その時まで、また、その時を越えても、「イエスさまの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)。

 私たちは、毎週日曜日教会に集い、礼拝を献げています。これは、この世が終わる時まで、変わることなく続けられます。新型コロナウイルスが再び勢いを増して、礼拝堂に皆共に集うことに不安を感じることがあるかもしれませんが、それでも、主イエスの言葉が滅びることはありませんので、どのような形を取っても、御言葉は語り続けられます。
 そして、その御言葉の力と、聖霊の働き、助けによってわたしたちは、日々新しくされ、霊的な糧をいただいています。

 主イエスが来られる日はわかりませんが、その時まで、「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)と、イエスさまは言われました。この言葉は、今を生きる私たちに、決して御言葉に聴くことを止めず、日々聖書を開いて、聖書を読み、神さまから私たちの心に響いてくる言葉を聴きなさいということです。
 主の言葉、聖書の言葉がいつも私たちと共にあれば、不安に襲われても、苦労をしているときでも、その御言葉がわたしたちに力を与えてくれます。熱心なユダヤ人、ユダヤ教徒は、自分の額と腕に小さな箱をくくりつけて、その中に聖書の言葉を入れてその言葉を暗記するという風習があります。彼らにとって、それほどまでに聖書の言葉を身につけて、共にあることが大切だということです。
 わたしたちは、彼らと同じように、御言葉を身に着けるという見かけを大切にすることはしていません。しかし、彼ら以上に、私たちは、聖書の言葉を読み、自分の心の中に留めなければならないでしょう。そして、それは自分の力だけでできることではなく、神さまに祈り、聖霊の助けを得てはじめて命の糧として、心の中に留まる御言葉になります。

 この一年を振り返り、私たちの心の中に留められた聖書の言葉は、どの言葉だったでしょうか? 今週は、この一年を振り返り、私たちを力づけ、導いてきた御言葉を聖書の中から改めて、拾い出してみてはいかがでしょうか。そのことを通して、新しい年に向けた備えが整ってくると思います。

小さなコラム「旧約聖書には、救いの歴史が書かれている」

 私たちは、イエスさまを救い主として信じています。それは、私たちに絡みついている罪から解放してくださり、神の子として、新しい人として生きることができるようにしてくださる方なので、救い主と呼んでいます。
 クリスチャンにとって、イエスさまが与えてくださる救いはとても大切ですが、イエスさまが来られる前、ユダヤ人にとって、この世界を創られた神さまは、自分たちイスラエル民族を救ってくださる方。という、確信に満ちた信仰が与えられていました。では、その信仰はどこから来るのでしょうか。
 それは、イスラエル民族が経験した2つの大きな出来事から来ています。
 一つ目は、エジプトで奴隷生活を送っていたところから救い出し、アブラハムに約束された土地に連れて行ってくださった出来事です。成人男性だけでで、60万人いたと書かれているイスラエルの民を、奴隷から解放し、神さまがカナンの地に導いて行かれたのは、神さまがこの世から選び出した一人の人、アブラハムに約束されたことを守るためでした。
 神さまは、私たち人間がどれほど不信仰になっても、御自身から約束されことを必ず守られる方だと、聖書に書かれています。そのことが、神さまの正義だと書かれています。
 イスラエルの民は、エジプトから脱出し、シナイ山でモーセを通して、神の民となる契約の覚え書き。律法を与えられました。律法は、奴隷社会で自らの法律を持っていなかったイスラエルの民の社会を形づくる大切な法となりました。そして、それだけでなく、神さまに対して、何をすれば、あるいは、何をしなければ、罪を犯すことになるかを教える養育係ともなりました。

 二つ目の出来事として、イスラエルの民が経験したことは、捕囚の出来事でした。イスラエルの国は、ダビデ王、ソロモン王の時代に最も栄えましたが、ソロモンの息子が王となった時、国が二つに分かれ、その後、北イスラエル王国はアッシリアにより、南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされます。
 そして、国が滅びただけでなく、その地域に住んでいた主だった人が別の土地に移住させられて、異教の神々を拝むように強制されたのです。
 北イスラエル王国に住んでいた人々は、散り散りにされたため、国が滅ぶ前に住んでいた場所に戻ることは困難でしたが、南ユダ王国からバビロニアに移住されられた人々は、70年を経た後、ペルシアによって解放されエルサレムを中心とする土地に戻ることができました。
 この出来事も、イスラエルの民にとって神さまの救いの出来事として、記憶されました。

 この二つの出来事の内、一つ目のエジプト脱出の出来事は、そのことが事実だったと告白することで、ユダヤ人の信仰告白となるほど大切な出来事です。そして、その出来事に寄せるイスラエルの人々の思いは、詩編の中で、多くの預言者たちの預言の中で、繰り返し語られてきました。それを語ることが、信仰の証しであり、イエスさまがわたしたちのところに来てくださり、真の救いを与えてくださった後も、聖書全体を通して、私たちに与えられている救いの証しとして、語り続けられているのです。

小さなコラム「人を憎むのではなく、愛すること」

 この世に生を受けて誕生したほとんどの人は、生まれた時から、傷つけられたり、傷つけたりしようと願う人はいないでしょう。すやすやと眠る赤ん坊の顔を見ると、この子が誰かを憎むことは考えられないと、思います。ところが、赤ん坊が成長し、社会の一員として成長していく中で、さまざまな影響を受けて、自分とは違うところがある人に対する偏見を持つことがあります。

 一人の人が、だれかを傷つけることは許されないと思っていても、これが、社会の中の大きなグループになればなるほど、その感情が薄れ、国の規模になると、戦争をして相手を傷つけてもよいと思ことが、歴史の中で繰り返されてきました。そういう思いが浮かんでくることは、とても悲しいことです。

 しかし、聖書には、イエスさまがこのように言われたことが書かれています。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42 )

 私たちが、社会の中の大きなグループに対して敵意や憎しみを感じた時、イエスさまが言われた言葉を思い出してみましょう。自分と他人に違いがあっても、人が人を愛する気持ちは、神さまから与えられた恵みとして、必ず持っているはずです。他人の暴力を見て、暴力で立ち向かおうとしてはいけません。そうではなく、どうすればイエスさまがわたしたちを愛してくださったことに、お応えすることができるかを、祈り求めて行くことが、キリスト者に問われていることではないでしょうか。 主イエスが十字架の上で死に至るまで、私たちを、しかも主イエスを憎むものさえ愛してくださったことを、決して忘れてはいけません。

小さなコラム「人は何で生きるか」

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 マタイによる福音書4章4節
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」 申命記8章3節

 上に書いた聖書の言葉は、非常に有名な言葉です。では、だれがこの言葉を言ったでしょうか? 福音書の言葉は、イエスさまが言われた言葉だと、多くの人は気が付くでしょう。では、申命記に書かれている言葉は誰の言葉か? 申命記は、モーセが自分の命が終わる前に、イスラエルの民がこれから約束の地、カナンに入る前に残した言葉として書かれました。つまり、申命記の言葉はモーセが残した言葉です。モーセは、イスラエルの民が40年の間、シナイの荒れ野を旅した時、神さまが天から与えてくれた食べ物(マナ)を取り上げて、これは、口から入って生命をつなぐものであった。そして、それは、神さまが与えるものが、人の生命をつなぐものであることを教えるためであったと言っています。
 わたしたちの身体を生き続けさせるためには、栄養となる食べ物が必要です。そして、神さまからその身体にいただいている「霊」。「魂」が必要とする栄養は、主の言葉。聖書の言葉であると言えるでしょう。

 いつの時代であっても、困難な状況から救い出し、希望と力を与えてくれるのは、主の言葉。聖書の言葉です。一日、一日、主の言葉を読み、その言葉に示されている神さまの愛、憐れみ、罪の赦しを受けて、生き生きと生きる者とさせていただきたいと願います。