「彼は庭を造り、庭の南側に亜麻のより糸で織った長さ百アンマの幔幕を張った。」 出エジプト記 38章9節
「彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。」 使徒言行録 21章29節
エルサレムの神殿と、神殿ができる前に作られた会見の幕屋。どちらも神さまを礼拝し、罪の悔い改めの犠牲を献げる場所として作られました。会見の幕屋も神殿もそこに神さまがおられる(臨在される)という信仰から、祭司が入れる場所、ユダヤ人が入れる場所、婦人が入れる場所、異邦人が入れる場所というように、立ち入れる場所が決まっていました。
これは、人々を差別しようというのではなく、神さまは聖なる方なので、近づきすぎて神さまの怒りに触れて、死ぬことがないようにという配慮からでした。立ち入ることができる場所が違っていても、神さまを信じる人は、それぞれの場所で祈りを献げることができました。
教会で礼拝を献げる時、その場所に制限がないのは、イエスさまがすべての垣根を取り壊し、すべての人が救いに与ることができるようにしてくださったからです。
パウロが誓願の期間を終えたナジル人とエルサレム神殿に入った時、入っては行けない場所に異邦人と立ち入ったというえん罪で捉えられました。パウロにとって、このえん罪は言われなきものでしたが、そのことで、主を証しする機会を新たに与えられることになったのです。
神さまは、思いもかけないことから私たちを用いられることがあることを憶えたいと思います。
この世に生を受けて誕生したほとんどの人は、生まれた時から、傷つけられたり、傷つけたりしようと願う人はいないでしょう。すやすやと眠る赤ん坊の顔を見ると、この子が誰かを憎むことは考えられないと、思います。ところが、赤ん坊が成長し、社会の一員として成長していく中で、さまざまな影響を受けて、自分とは違うところがある人に対する偏見を持つことがあります。
一人の人が、だれかを傷つけることは許されないと思っていても、これが、社会の中の大きなグループになればなるほど、その感情が薄れ、国の規模になると、戦争をして相手を傷つけてもよいと思ことが、歴史の中で繰り返されてきました。そういう思いが浮かんでくることは、とても悲しいことです。
しかし、聖書には、イエスさまがこのように言われたことが書かれています。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42 )
私たちが、社会の中の大きなグループに対して敵意や憎しみを感じた時、イエスさまが言われた言葉を思い出してみましょう。自分と他人に違いがあっても、人が人を愛する気持ちは、神さまから与えられた恵みとして、必ず持っているはずです。他人の暴力を見て、暴力で立ち向かおうとしてはいけません。そうではなく、どうすればイエスさまがわたしたちを愛してくださったことに、お応えすることができるかを、祈り求めて行くことが、キリスト者に問われていることではないでしょうか。 主イエスが十字架の上で死に至るまで、私たちを、しかも主イエスを憎むものさえ愛してくださったことを、決して忘れてはいけません。
「目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。」 ダニエル書 12章3節
「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 ルカによる福音書 21章9節
この世界が、少なくとも、この地球そのものがやがて終わりを迎えることは、科学者も他の星々の観察から、必ず起きると証明しています。
もちろん、科学者たちが説明している地球の終わりの時は、ずっと先で、今生きている人も、また、私たちを知る子どもや孫もいない、遠い時代だと言われています。しかし、聖書が私たちに示すこの世の終わりは、いつ、どんな時に来るかは、天の父なる神さまだけがご存知で、私たちが知ることはできないとされています。
そう聞くと、何か、突然恐ろしいことが起きるかのように思えるかも知れませんが、そうではありません。主イエス・キリストを信じる人々は、この世の終わりかと思えることが起きても、世の終わりはすぐに来ないことを知らされています。
また、主イエスによって救われ、また、主イエスを証しすることで、他の人を救いへと導いた人々は、この世の終わりの後、「とこしえに星と輝く」と、神さまが約束していてくださるからです。
主イエスのみ言葉にこそ力があり、まことの光と平安が私たちに与えられているのです。
イエスさまの言葉:「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネによる福音書16:33