小さなコラム「数えてみよう主の恵み」

 コロナ禍が長く続き、感染者数が増え続ける今、私たちの気持ちを落ち込ませることがなんと多いことでしょうか。
 私たちの心を落ち込ませ、不安にさせる報道、人々のつぶやき、私たちの周囲を見れば見るほど、気持ちが暗くなっている人が多いのではないでしょうか。
 こんな時、聖書を開いてみると、神さまがこの世界を創られた時、すべてもものを神さまから見て「よい」ものとして創られました。
 神さまは完全に正しい方ですので、神さまが「よい」と言われるものはすべて私たちにとって「よい」ものです。
 であれば、私たちは今、朝起きた時から、神さまの恵みがいくつあるか数えてみてはどうでしょうか?
 朝目を覚ますことができた恵み、食事をいただくことができる恵み、病院のベッドで寝ていても、治療を受け、介護される恵み。
 身近な人と今日は、いくつ神さまの恵みを数えることができたかということを話し合うことをすれば、暗い中にあっても、神さまが明るい光を指してくれるのではないでしょうか。
 不安、つらいと落ち込んでいるのではなく、お一人おひとりに神さまが与えてくださる恵みの数を数え、神さまからの恵みを豊かにいただいて、その日を過ごしていきたいと願います。

今週のみ言葉「神さまは分け隔てされない」

「彼は庭を造り、庭の南側に亜麻のより糸で織った長さ百アンマの幔幕を張った。」         出エジプト記 38章9節

「彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。」         使徒言行録 21章29節

 エルサレムの神殿と、神殿ができる前に作られた会見の幕屋。どちらも神さまを礼拝し、罪の悔い改めの犠牲を献げる場所として作られました。会見の幕屋も神殿もそこに神さまがおられる(臨在される)という信仰から、祭司が入れる場所、ユダヤ人が入れる場所、婦人が入れる場所、異邦人が入れる場所というように、立ち入れる場所が決まっていました。
 これは、人々を差別しようというのではなく、神さまは聖なる方なので、近づきすぎて神さまの怒りに触れて、死ぬことがないようにという配慮からでした。立ち入ることができる場所が違っていても、神さまを信じる人は、それぞれの場所で祈りを献げることができました。
 教会で礼拝を献げる時、その場所に制限がないのは、イエスさまがすべての垣根を取り壊し、すべての人が救いに与ることができるようにしてくださったからです。
 パウロが誓願の期間を終えたナジル人とエルサレム神殿に入った時、入っては行けない場所に異邦人と立ち入ったというえん罪で捉えられました。パウロにとって、このえん罪は言われなきものでしたが、そのことで、主を証しする機会を新たに与えられることになったのです。

 神さまは、思いもかけないことから私たちを用いられることがあることを憶えたいと思います。

小さなコラム「平和について」

 来月8月15日は、日本が太平洋戦争で敗戦してから76年になります。毎年8月は平和について考える集会が各地で行われ、日本キリスト教団は、8月第1主日を平和聖日として礼拝を守ります。
 歴史の中で人間は何度も平和が来た、平和を実現したと宣言していますが、その平和はしばらくすると戦いによって消されてしまいました。
 
 これから先の歴史で、日本が再び戦争に巻き込まれるのか、そうではないかは、後何百年もしないと分からないかもしれません。
 しかし、わたしたちは、いつの間にか失われてしまう平和ではなく、主イエスが実現され、私たちに与えてくださっている平和をいつも求めていきましょう。
 
 梅雨が明けて、暑い夏がやって来ました。しかし、暑さに負けることなく、しばらくの時、本物の平和とは何かを考えてみたいと思います。

小さなコラム「終末主日を迎えました」

 今日(11月22日)は、終末主日です。教会の暦で一年の一番最後の日曜日です。イエスさまが再び私たちのところに来てくださり、完全な神の国が実現する時は、だれにも知らされていません。けれども、その時がいつかを心配するのではなく、いつその時が来ても、あわてることがないように準備をしていなさいと、イエスさまは教えておられます(マタイ24:29~44)。
 終末主日は、一年の終わりを憶えると共に、この世の終わり、イエスさまが再び来られる時を憶える日でもあります。この世が終わる時は、人々のうわさによって知らされるのではなく、私たち主イエスを信じる人々には、そのしるしがはっきりと示されますから、心配することはありません。そして、その時まで、また、その時を越えても、「イエスさまの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)。

 私たちは、毎週日曜日教会に集い、礼拝を献げています。これは、この世が終わる時まで、変わることなく続けられます。新型コロナウイルスが再び勢いを増して、礼拝堂に皆共に集うことに不安を感じることがあるかもしれませんが、それでも、主イエスの言葉が滅びることはありませんので、どのような形を取っても、御言葉は語り続けられます。
 そして、その御言葉の力と、聖霊の働き、助けによってわたしたちは、日々新しくされ、霊的な糧をいただいています。

 主イエスが来られる日はわかりませんが、その時まで、「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)と、イエスさまは言われました。この言葉は、今を生きる私たちに、決して御言葉に聴くことを止めず、日々聖書を開いて、聖書を読み、神さまから私たちの心に響いてくる言葉を聴きなさいということです。
 主の言葉、聖書の言葉がいつも私たちと共にあれば、不安に襲われても、苦労をしているときでも、その御言葉がわたしたちに力を与えてくれます。熱心なユダヤ人、ユダヤ教徒は、自分の額と腕に小さな箱をくくりつけて、その中に聖書の言葉を入れてその言葉を暗記するという風習があります。彼らにとって、それほどまでに聖書の言葉を身につけて、共にあることが大切だということです。
 わたしたちは、彼らと同じように、御言葉を身に着けるという見かけを大切にすることはしていません。しかし、彼ら以上に、私たちは、聖書の言葉を読み、自分の心の中に留めなければならないでしょう。そして、それは自分の力だけでできることではなく、神さまに祈り、聖霊の助けを得てはじめて命の糧として、心の中に留まる御言葉になります。

 この一年を振り返り、私たちの心の中に留められた聖書の言葉は、どの言葉だったでしょうか? 今週は、この一年を振り返り、私たちを力づけ、導いてきた御言葉を聖書の中から改めて、拾い出してみてはいかがでしょうか。そのことを通して、新しい年に向けた備えが整ってくると思います。

小さなコラム「旧約聖書には、救いの歴史が書かれている」

 私たちは、イエスさまを救い主として信じています。それは、私たちに絡みついている罪から解放してくださり、神の子として、新しい人として生きることができるようにしてくださる方なので、救い主と呼んでいます。
 クリスチャンにとって、イエスさまが与えてくださる救いはとても大切ですが、イエスさまが来られる前、ユダヤ人にとって、この世界を創られた神さまは、自分たちイスラエル民族を救ってくださる方。という、確信に満ちた信仰が与えられていました。では、その信仰はどこから来るのでしょうか。
 それは、イスラエル民族が経験した2つの大きな出来事から来ています。
 一つ目は、エジプトで奴隷生活を送っていたところから救い出し、アブラハムに約束された土地に連れて行ってくださった出来事です。成人男性だけでで、60万人いたと書かれているイスラエルの民を、奴隷から解放し、神さまがカナンの地に導いて行かれたのは、神さまがこの世から選び出した一人の人、アブラハムに約束されたことを守るためでした。
 神さまは、私たち人間がどれほど不信仰になっても、御自身から約束されことを必ず守られる方だと、聖書に書かれています。そのことが、神さまの正義だと書かれています。
 イスラエルの民は、エジプトから脱出し、シナイ山でモーセを通して、神の民となる契約の覚え書き。律法を与えられました。律法は、奴隷社会で自らの法律を持っていなかったイスラエルの民の社会を形づくる大切な法となりました。そして、それだけでなく、神さまに対して、何をすれば、あるいは、何をしなければ、罪を犯すことになるかを教える養育係ともなりました。

 二つ目の出来事として、イスラエルの民が経験したことは、捕囚の出来事でした。イスラエルの国は、ダビデ王、ソロモン王の時代に最も栄えましたが、ソロモンの息子が王となった時、国が二つに分かれ、その後、北イスラエル王国はアッシリアにより、南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされます。
 そして、国が滅びただけでなく、その地域に住んでいた主だった人が別の土地に移住させられて、異教の神々を拝むように強制されたのです。
 北イスラエル王国に住んでいた人々は、散り散りにされたため、国が滅ぶ前に住んでいた場所に戻ることは困難でしたが、南ユダ王国からバビロニアに移住されられた人々は、70年を経た後、ペルシアによって解放されエルサレムを中心とする土地に戻ることができました。
 この出来事も、イスラエルの民にとって神さまの救いの出来事として、記憶されました。

 この二つの出来事の内、一つ目のエジプト脱出の出来事は、そのことが事実だったと告白することで、ユダヤ人の信仰告白となるほど大切な出来事です。そして、その出来事に寄せるイスラエルの人々の思いは、詩編の中で、多くの預言者たちの預言の中で、繰り返し語られてきました。それを語ることが、信仰の証しであり、イエスさまがわたしたちのところに来てくださり、真の救いを与えてくださった後も、聖書全体を通して、私たちに与えられている救いの証しとして、語り続けられているのです。

小さなコラム「正直に歩む」

 私たちの教会では、使徒言行録を、連続講解説教として、読んでいます。この中で、福音を力強く語り続ける使徒たちに対し、激しく抵抗し、迫害するユダヤ人たちの様子が書かれています。キリスト者に対する迫害は、民衆の中に、広がって行った、この世の権力ではない権力に恐れを抱いた、ローマ帝国から始まったのではありませんでした。
 では、なぜ、ユダヤ人たちの中から、キリスト者に対する迫害が始まっていったのでしょうか。それは、イエスさまを主として信じた人々の多くが、ユダヤ教を信じていた人たちであったことと関係しています。もともと、ユダヤ教の信仰を持ち、モーセを通して与えられた律法を守るように生活をしていた人たちが、十字架に架けられたイエスさまによって救いを得たと信じている事が、ユダヤ人たちにとってがまんできないことでした。
 エルサレムに住んでいた多くのユダヤ人たちは、イエスさまが宗教指導者たちのねたみから十字架刑に処せられた時、指導者たちに同調してイエスさまの死刑に賛成しました。それは、指導者たちの煽動だけでなく、神さまを冒瀆したという理由が本当だと思ったからです。そして、律法に書かれているように、杭に付けられて死んだ人は、神さまから呪われていると律法にあることから、十字架に架けられたイエスさまは、神さまから呪われた人だと思いました。
 そのため、多くのユダヤ人は、神さまを冒瀆し、神さまから呪われて死んだ人を自分たちの主である。旧約で預言されているメシアだとはとても思うことができませんでした。また、ユダヤ教に熱心な人々は、自分たちは、律法と言い伝えによるさまざまな規則を守ろうとして苦労しているのに、イエスさまを信じた人々は、そのことから、解放されて、のびのびと生活しているという様子も、我慢ならなかったのでしょう。
 そのため、キリスト者に対する迫害は、まずユダヤ人たちの中から起こり、やがて、治安を乱す人々として、ローマ帝国が迫害をするようになっていきました。

 さて、2000年の昔、迫害を受けたキリスト者たちは、すぐにでもイエスさまがこの世に来られて、この世を裁かれ、神の国が実現すると考えていました。そこで、日々敬虔な生き方をするように心がけていたのですが、2000年の間、イエスさまが地上に来られなかった時を経て、今の私たちの生活はどのようになっているでしょうか。神さまがこの世の最後に裁きを行われる時は、父なる神さましかご存じないと、イエスさまが言われたように、明日なのか、それともずっと先のことなのか、私たちにはわかりません。それでも、突然イエスさまが来られて、私たちに前に姿を現されたら、素直な心で、イエスさまをお迎えすることができるでしょうか?
 主の祈りで、「御心の天になるごとく、地にもならせたまえ」と繰り返し祈っているにもかかわらず、その時になって、しまったと、あわてることはないでしょうか。
 今日の説教で取り上げたアナニアとサフィラの出来事は、そんな私たちに、キリスト者は、どのように生きるべきかを教えています。良いことをしようと、自分の力で頑張って生きること以上に、神さまに対して、正直に生きることが大切だということを、この出来事は教えています。箴言16章3節に、
 「正しいことを語る唇を王は喜び迎え 正直に語る人を愛する。」
とあります。この「王」は、神さまによって立てられ、神さまを信じる正しい王として書かれていますが、同時に、私たちの王であるイエスさまを指していると言えるでしょう。イエスさまは、正しいことを語る人を喜び迎え、正直に語る人を愛してくださいます。神さまの前に、正直に歩むものでありたいと願います。

今週のみ言葉「正直に生きる」

 「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。」                   箴言 30章5節

 「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
                    使徒言行録 5章4節

 旧約では、神さまによって招かれ、神さまのために用いられた人でも、神さまから心を離してしまい、罪を犯してしまう人が沢山登場します。
 そこで、神さまは、人間の力で罪から助かるのではなく、神さまの方から私たちに近づいてくださり、神さまが私たちを救うために、独り子イエスさまを遣わしてくださいました。それで、私たちは、イエスさまを信じることで、罪の奴隷から解放されて救われるようになりました。

 新約で、救われた人々は、すべてイエスさまを信じることで救いの恵みに与ったのですが、中には、せっかく救いの恵みをいただいても、そこから漏れてしまう人がいたのです。
 その例が、使徒言行録5章に書かれている、アナニアとサフィラという一組の夫婦による出来事でした。彼らは、自分の土地を売った代金をごまかして、実際よりも少ない金額で土地を売ったように見せかけ、土地の代金すべてを教会のために持ってきましたと、うそをつきました。
 使徒ペトロはそのことを、聖霊から知らされ、アナニアに注意したところ、アナニアの命はたちまち、神さまによって召し上げられてしまいました。この話しは、救いの恵みに与った者でも、決して神さまを試みてはいけない。神さまの恵みの中で、感謝して正直に生きることを私たちに教えています。

小さなコラム「人を憎むのではなく、愛すること」

 この世に生を受けて誕生したほとんどの人は、生まれた時から、傷つけられたり、傷つけたりしようと願う人はいないでしょう。すやすやと眠る赤ん坊の顔を見ると、この子が誰かを憎むことは考えられないと、思います。ところが、赤ん坊が成長し、社会の一員として成長していく中で、さまざまな影響を受けて、自分とは違うところがある人に対する偏見を持つことがあります。

 一人の人が、だれかを傷つけることは許されないと思っていても、これが、社会の中の大きなグループになればなるほど、その感情が薄れ、国の規模になると、戦争をして相手を傷つけてもよいと思ことが、歴史の中で繰り返されてきました。そういう思いが浮かんでくることは、とても悲しいことです。

 しかし、聖書には、イエスさまがこのように言われたことが書かれています。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42 )

 私たちが、社会の中の大きなグループに対して敵意や憎しみを感じた時、イエスさまが言われた言葉を思い出してみましょう。自分と他人に違いがあっても、人が人を愛する気持ちは、神さまから与えられた恵みとして、必ず持っているはずです。他人の暴力を見て、暴力で立ち向かおうとしてはいけません。そうではなく、どうすればイエスさまがわたしたちを愛してくださったことに、お応えすることができるかを、祈り求めて行くことが、キリスト者に問われていることではないでしょうか。 主イエスが十字架の上で死に至るまで、私たちを、しかも主イエスを憎むものさえ愛してくださったことを、決して忘れてはいけません。

イエスさまの言葉:「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネによる福音書16:33