「目には目を、歯には歯を」の本当の意味

 「目には目を、歯には歯を」の言葉は、多くの人が知っている言葉でしょう。でも、この言葉が最初に文字として書かれているのは聖書です。そのことをみなさんは、知っておられたでしょうか? でも、その言葉の本当の意味を知っている人は、どれほどおられるのでしょうか?

 多くの人は、 この言葉を、自分の目を傷つけられたら、相手の目を傷つけてもいい。自分の歯を折られたら、相手の歯を折ってもいいと、解釈 しています。

 ところが、 この言葉の本当の意味は、古代において、目や歯を傷つけられたら、倍返しどころか、相手を殺してもいいと、悪意を増大させることをやめさせるためのいましめでした。現代は、意味の取り方が、180度違って受け取られてしまっています。

 この言葉が書かれている出エジプト記の箇所は、規則の最初に奴隷について 書かれています。そのことは、奴隷を財産としてではなく、ひとつの命として大切に扱うようにという考えからでした。古代において、奴隷を大切に扱うという考えは、他の国々の人々の価値観からするとまったく異なるとらえ方でした。けれども、それが示されているのは、イスラルの人々が、エジプトで奴隷生活を送っていたところから救い出したのが、まことの神さまだったからです。

 ここに、まことの神さまの愛が示されています。この話に興味を持たれた方は、ぜひ、私たちの宇都宮東教会へお越しください。毎週聖書を通して、神さまの愛が語られています。あなたも、神さまの愛に触れていただきたいと願います。

差し出された手に触れればいいのです

 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ルカによる福音書 19章10節

 この言葉は、イエスさまが、ユダヤ人社会の中で、罪人(つみびと)として周囲の人から見られ、社会の中での付き合いも同業者以外からは断られていた徴税人ザアカイに関する物語の最後で語られた言葉です。
ザアカイは、当時のユダヤがローマと異邦人ヘロデ王の二重支配の中で、重税をかけられ、その税金を取り立てる仕事をしていたため、人々から恨まれていました。
けれども、そのザアカイが住む町をイエスさまが通られたとき、背が低かったザアカイが、イエスさまに対する高い関心から、木の上からイエスさまのことを見ようとしたのです。木の上にいるザアカイをイエスさまがご覧になって、降りてくるように声をかけられ、今日、ザアカイの家で食事をして泊まりたいと言われました。
 このことは、ザアカイにとって非常な驚きでした。なぜなら、他のユダヤ教の指導者たちは、自分を目の敵にして、全く相手にしていなかったからです。ところが、イエスさまは、自分を避けるどころか、イエスさまの方から近づいてこられ、親しい人どうしでないとしない、会食を共にしてくださったのです。このことから、ザアカイは、自分が罪人であっても、神さまの方から近づいてくださり、救いをもたらしてくださることを理解したのです。
 私たちは、神さまを信じる、信じないと言って、自分自身に神さまを選ぶ権利があるように思いがちですが、実はそうではありません。まことの神さまは、神さまの方から私たちの方に近づいてこられ、手を差し伸べていてくだいます。

 私たちは、その手に触れる、ちょっとした勇気さえあれば、救いにあずかることができるのです。

 この話しについて、興味をもたれた方、もっと詳しく知りたいと思われた方は、ぜひ、宇都宮東教会へお越しください。あなたが来てくださることを、心からお待ちいたしております。

思いやる心

 神さまが人となられて、この世に来たイエスさま。その方が、神さまの目で見て、罪を繰り返す私たちを、どのように見ておられるのか?
 それを知ることができる出来事が、ヨハネによる福音書8章1節から11節に書かれています。

 イエスさまがエルサレム神殿で神さまのことを教えておられた時、大勢の人が、姦通の罪を犯した女性を捕らえて、イエスさまのところへ連れて来ました。姦通の罪の刑は当時、石打ちの刑と決まっていました。人々は手に手に大きな石を持っています。そして、イエスさまに尋ねました。「イエスさま、この女をどうしたらいいと思いますか?」
 実は、この問いにはわなが仕掛けれていました。
 律法に従い、この女を石打ちの刑にしなさいと言えば、人々の罪を赦してきたイエスさまの行動が疑われる。一方、この場で罪を赦すと言うと、イエスさまは律法を破った人として訴えられる。
 どちらの答えをしても、イエスさまが非難を浴び、訴えられる恐れがあったのです。

 ところが、イエスさまの行動は、予想もしないものでした。人々の問いかけや罵声に応えず、静かに地面に文字を書いていたのです。
 そして、人々の問いかけが、一層高まったとき、イエスさまは答えられました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
 すると、年長の者から一人、また一人とその場から離れていき、最後に捕らえられた女性一人が残されました。するとイエスさまは、だれも残っていないのをご覧になり、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われました。
 あなたは、この出来事について、どのように考えるでしょうか?

 イエスさまが、罪を犯した人のそばで、何も言わず、ただ座っておられた。今も、私たちの隣りには、神さまがおられます。そして、私たちが、神さまの方に心を向けるのを、じっと待っておられます。 
 この話しについて、興味をもたれた方、もっと詳しく知りたいと思われた方は、ぜひ、宇都宮東教会へお越しください。あなたが来てくださることを、心からお待ちいたしております。

引用した聖書は、日本聖書協会 新共同訳聖書です。

99匹と1匹の羊

 みなさんは、99匹と1匹の羊のたとえを聞いたことがあるでしょうか?
 イエスさまが、大勢の人々に神さまのことを話していた時、その場にやって来た子どもたちを、弟子たちが追い返そうとしました。
 イエスさまに従っていた弟子たちは、その時、とてもいそがしくて疲れているイエスさまが、これ以上、子どもたちによってわずらわされないように、という思いだったのでしょう。
 ところが、イエスさまは、子どもたちを帰そうとした弟子たちに注意され、子どものように小さなものを、軽く見てはいけないと言って、有名な羊のたとえを話されました。

 羊のたとえは、百匹の羊を持っている人がいて、その中から、1匹の羊が迷い出ていなくなったら、持ち主は残りの99匹を山に残したまま、迷い出た1匹を探しに行くにちがいないという話しです。

 経済的な物の見方なら、1匹の羊より、99匹の羊の方が大切なはずです。けれども、私たちを愛してくださる神さまは、神さまのところから迷い出た 1匹の羊を探し出して下さり、見つかれば大喜びされると言わるのです。
 迷い出た1匹の羊は、小さい者をたとえていますが、この世で苦しみ、悲しみを感じている人のことだけではありません。普段生活をしていて、何も困ることはない、特別の不足も感じていないと思っていても、この世界を創られた神さまのことを、心に思い描かない人も、神さまから見ると、この  1匹の羊にたとえられているのです。

 この話しについて、興味をもたれた方、もっと詳しく知りたいと思われた方は、ぜひ、宇都宮東教会へお越しください。あなたが来てくださることを、心からお待ちいたしております。

イエスさまの言葉:「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネによる福音書16:33