「教会の幻」

 私たちは、今、この日本で暮らす信仰者として。長い間、日本の伝道がふるわない。なかなか信徒が増えていかない。そればかりか、最近では、世の中で言われている、少子高齢化を反映して、教会の教勢が落ちていると嘆いています。しかし、そう嘆くことが、本当に私たちが抱えている問題を的確に捉えて、対応することに結び付いているのか? という疑問を私は、持っています。

 現在、日本のクリスチャン人口は、カトリックとプロテスタントを合わせても、1%に満たないと言われています。
 それに対し、戦前、戦中、キリスト教よりも弾圧を受けた、創価学会。創価学会は、戦後、家族毎に伝道活動をするということで、現在3%の信者がいると言われています。創価学会の伝道の方法は、以前は説伏と呼ばれる強引な方法もありましたが、家族単位に布教をしたことで、信者を増やしました。
 家族単位で信者が増えたことで、信仰の継承。親から子へ、子から孫へという信仰の継承が、キリスト教よりも容易であると言われています。家族単位で同じ信仰を持つと、冠婚葬祭。とりわけ、結婚式や葬儀という場面で、同じ信仰を持っているという安心感があります。
 創価学会はもちろん、キリスト教ではありませんが、彼らが取り組んだ伝道の中に、多くの人を教会に招くための、何らかのヒントがあるのではないでしょうか?

 聖書の中で、パウロたちが行った伝道を考えてみると、聖書が書かれている時代、今あるような「礼拝堂」、という建物はありませんでした。
 ユダヤ人が各地に建てた、「会堂」を使って伝道することはありましたが、多くは家の教会と呼ばれる、個人の家での礼拝が行われました。また、ローマ帝国の迫害が厳しい時代、地下墓地と訳される「カタコンベ」という場所で、礼拝が行われたことが知られています。
 礼拝の場所が、そういう場所であったことを考えると、家族の中の誰か一人が、イエスさまの教えに興味を持って出かけて行く、ということは少なかったのではないでしょうか。一人ではなく、家族全員で、イエスさまの話しを聞き、家族全員が信徒になるということが起きたでしょう。
 実際、使徒言行録16章で、牢に捕らわれていたパウロとシラスが大地震が起きて、牢から脱出する機会を得た時、驚いて自殺を図った看守を助けたことから、家族全員が信徒になったという記事があります。
 私たちも、日本の伝道を考える時、機会を捉えて、家族全体に福音を伝えることを考えていくべきではないでしょうか。

 日本における伝道不振の解決策。それは、教会に集う一人一人が御言葉の力によって、聖霊の助けによって、信仰を深められ、豊かにされること。そこから始まり、家族ぐるみへの伝道、福音を語ること、自らの生き方そのものによって、主イエスを証しすること。
 そのことを通して、それぞれの教会の伝道。そして、日本の伝道の新たな道筋が開けていくのではないでしょうか。

 教会に来る人が少ない、と嘆く人が多くいますが、これから教会に招くことができる人の数は、本当に少ないのでしょうか?
 先日行われた、参議院選挙の投票率が、50%以下であったという報道がありました。この報道を聞いたとき、私は、物事に対する関心がない人が、日本人の半数近くもいると思いました。
 であるなら、そこにはまだまだ、福音を語る余地、伝道をする余地が残されていると思います。なぜなら、政治にすら、無関心である人の心の中には、神さまを受け入れるだけの余地が、まだ残されていると思うからです。

 教会の中で、伝道不振を嘆くのではなく、まだまだ福音が届いていないところが多くあり、御言葉の力によって、多くの人が救われる希望があることを覚えて、歩んで行きたいと思います。

「七転び八起き」

 最近、東田直樹という著者が書いた、「七転び八起き」という本を読みました。この著者は、他の作家と一つ違う点があります。それは、彼が重度の自閉症であるということです。
 自閉症の障がいを持っている人は、通常他人とのコミュニケーションが困難です。自分の思い、考えを人に伝えることがとても困難です。ところが、彼の場合、母親が根気強く彼を助け、筆談を教え、文字盤を押さえることで、自分の思いを表現することができるようになりました。
 それで、彼は自分の思いを文字の形で他の人に伝えることができるようになりました。

 彼が書いている文書の中で、自閉症のために、自分でしたいと思わない行動をしてしまう、また、同じ行動を繰り返してしまうことで、周囲の人が、その行動が好きだと誤解してしまうと書いています。彼がそういう行動を取った時、周囲の人が非難するのではなく、危険な行動でないかぎり、そのままにしてもらいたい。しかし、危険な行動はすぐに止めてもらいたいと書いてありました。

 この文書を読んだ時、使徒パウロが、私たちは罪の奴隷です。自分がしたいと思うことができず、したくないと思うことをしてしまうのです、と言っている言葉が重なってきました。
 罪の奴隷である人間の行動が、悪へ走る時は止めなければなりません。しかし、悪に結び付く以外の行動は、その人が置かれている環境や、その人の行動を、無理やり変えるのではなく、人格を尊重して、共に寄り添っていく。という姿勢が、信仰を守り育てていく上で大切なのではないでしょうか。
 彼の本を読んで、そのように感じさせられました。

「神さまが見せる幻」

 この世の中で、自分が住んでいる国と仲の悪い国が、武力を高めるためにたくさんの武器を準備しているとき、対抗しなければならない自国はどうするでしょうか。おそらく自国の武器をたくさん買って、相手が簡単に攻め込んでこないようにと考えるのではないでしょうか。

 旧約聖書には、イスラエルと周辺の国々が何度も戦ったことが書かれています。多くは、勝った、負けたということですが、列王記下6章には、預言者エリシャがイスラエルの敵アラムを、神さまが準備された軍で追い払ったことが書かれています。
 ドタンという町にエリシャと彼の従者がいた時、イスラエル軍に神さまからの指令を伝え、イスラエル軍を有利に導いていたエリシャを捉えようと、敵アラム軍がやって来て、町を包囲しました。
 すると、エリシャは神さまに祈り、従者の目を開くようにお願いしました。神さまがその願いを聞いて、従者の目を開いたところ、通常では見えるはずのない神の軍隊が、エリシャたちを囲って守っていることが見えたのです。
 エリシャと従者の周りを、火の馬と戦車が囲んでいるのが見えました。そして、その数は敵の数よりも多かったのです。
 さて、神さまが準備された軍はその後どうしたでしょうか?敵のアラムを倒しに出陣したでしょうか?
 いいえ、そうではありませんでした。神さまは、エリシャを用いて、敵の軍を欺き、別の町へと移動させ、イスラエルと直接戦わないようにされたのです。
 その様子を見たイスラエルの王はエリシャにたずねました。
 「わたしの父よ、わたしが打ち殺しましょうか、打ち殺しましょうか」
 イスラエルの王の目に映っていたのは、敵であるアラムが神さまの計画によって追われた時、今こそ、敵を倒す機会だということでした。
 ところが、イスラエルの王から問いかけを受けたエリシャは、思いも掛けないことを話したのです。
 「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
 神さまは、イスラエルの王に戦いを命じるのではなく、敵をもてなすための宴会を開かせ、敵が食事に満足して、国へ戻り、二度とイスラエルを攻めようとはしなかったのです。

 この話を聞いて、これは単に聖書の中だけの話しと思うでしょうか?
いいえ、今この世において、国と国が、人と人が考え方の違いから、敵対して対立し、武力で争おうと考えた時、武力を使わない解決方法があるのだということを、私たちは思い描かないといけないでしょう。
 私たち、神さまを信じる者がなすべきことは、神さまに祈り、神さまから示される解決方法。武力によらず、問題を解決する方法を願い求め、与えられた方法で和解し、神さまのみ心にかなう道に進むことが私たちに求められているのだと思います。

 多くの国が、自分たちの国のことだけを、いえ、自分のことだけを考えようとしている時こそ、神さまに解決策を求め、互いに愛し合うべき存在であることを覚えて、国と国が、人と人が共に暮らすことができる世の中を求めて行くべきではないでしょうか。
 その答えが、聖書の中にあると思います。そしてなにより、敵をも愛し、敵から十字架につけられた時でも、敵を許された主イエスの愛に私たちは、ならいたいと思います。