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小さなコラム「旧約聖書には、救いの歴史が書かれている」

 私たちは、イエスさまを救い主として信じています。それは、私たちに絡みついている罪から解放してくださり、神の子として、新しい人として生きることができるようにしてくださる方なので、救い主と呼んでいます。
 クリスチャンにとって、イエスさまが与えてくださる救いはとても大切ですが、イエスさまが来られる前、ユダヤ人にとって、この世界を創られた神さまは、自分たちイスラエル民族を救ってくださる方。という、確信に満ちた信仰が与えられていました。では、その信仰はどこから来るのでしょうか。
 それは、イスラエル民族が経験した2つの大きな出来事から来ています。
 一つ目は、エジプトで奴隷生活を送っていたところから救い出し、アブラハムに約束された土地に連れて行ってくださった出来事です。成人男性だけでで、60万人いたと書かれているイスラエルの民を、奴隷から解放し、神さまがカナンの地に導いて行かれたのは、神さまがこの世から選び出した一人の人、アブラハムに約束されたことを守るためでした。
 神さまは、私たち人間がどれほど不信仰になっても、御自身から約束されことを必ず守られる方だと、聖書に書かれています。そのことが、神さまの正義だと書かれています。
 イスラエルの民は、エジプトから脱出し、シナイ山でモーセを通して、神の民となる契約の覚え書き。律法を与えられました。律法は、奴隷社会で自らの法律を持っていなかったイスラエルの民の社会を形づくる大切な法となりました。そして、それだけでなく、神さまに対して、何をすれば、あるいは、何をしなければ、罪を犯すことになるかを教える養育係ともなりました。

 二つ目の出来事として、イスラエルの民が経験したことは、捕囚の出来事でした。イスラエルの国は、ダビデ王、ソロモン王の時代に最も栄えましたが、ソロモンの息子が王となった時、国が二つに分かれ、その後、北イスラエル王国はアッシリアにより、南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされます。
 そして、国が滅びただけでなく、その地域に住んでいた主だった人が別の土地に移住させられて、異教の神々を拝むように強制されたのです。
 北イスラエル王国に住んでいた人々は、散り散りにされたため、国が滅ぶ前に住んでいた場所に戻ることは困難でしたが、南ユダ王国からバビロニアに移住されられた人々は、70年を経た後、ペルシアによって解放されエルサレムを中心とする土地に戻ることができました。
 この出来事も、イスラエルの民にとって神さまの救いの出来事として、記憶されました。

 この二つの出来事の内、一つ目のエジプト脱出の出来事は、そのことが事実だったと告白することで、ユダヤ人の信仰告白となるほど大切な出来事です。そして、その出来事に寄せるイスラエルの人々の思いは、詩編の中で、多くの預言者たちの預言の中で、繰り返し語られてきました。それを語ることが、信仰の証しであり、イエスさまがわたしたちのところに来てくださり、真の救いを与えてくださった後も、聖書全体を通して、私たちに与えられている救いの証しとして、語り続けられているのです。

2020-04-19 今週のみ言葉

「主はわたしの力、わたしの歌 主はわたしの救いとなってくださった。」               出エジプト記 15章2節
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」    ヨハネによる福音書 20章31節
 
 旧約聖書と、新約聖書。どちらにも共通して書かれている主題は何でしょうか? それは、この世界を創られた「神さまによる救い」です。神さまは、この世界を「よい」ものとして創られたと、創世記1章に書かれています。その世界で、神さまが特別に愛し、また、愛された者が神さまを礼拝するように創られました。しかし、人間は罪を犯し、罪の結果としての、死を迎えることになりました。
 神さまはそのことをとても憐れまれました。自らの力では罪の奴隷から抜け出すことのできない人間を、神さまの手によって救われようとされました。旧約では、奴隷生活を送っていたエジプトから、約束の地、カナンへの脱出。また、バビロニアからの解放と、約束の地への帰還。この出来事を通して、神さまはイスラエルの人々に、神さまの救いを告げ知らせました。
 けれども、人間は弱く、繰り返し罪を犯し続けましたので、神の子主イエス・キリストをこの世へと送られました。その方の命によってわたしたちの罪を赦し、神さまのところへ呼び戻すことを実行されたのです。
 聖書の文字を書いたのは、私たち人間ですが、「十戒」の言葉が、神さまから与えられた言葉であるように、聖書全体の原作者はこの世界を創られた神さまです。原作者がお一人であるから、聖書の言葉に含まれる神さまの愛、救いの計画と実現は、一貫しています。
 どのような時代にあっても、神さまの愛と救いが変わることがないことを覚えて、新しい一週間を歩んでまいりましょう。

「神さまが見せる幻」

 この世の中で、自分が住んでいる国と仲の悪い国が、武力を高めるためにたくさんの武器を準備しているとき、対抗しなければならない自国はどうするでしょうか。おそらく自国の武器をたくさん買って、相手が簡単に攻め込んでこないようにと考えるのではないでしょうか。

 旧約聖書には、イスラエルと周辺の国々が何度も戦ったことが書かれています。多くは、勝った、負けたということですが、列王記下6章には、預言者エリシャがイスラエルの敵アラムを、神さまが準備された軍で追い払ったことが書かれています。
 ドタンという町にエリシャと彼の従者がいた時、イスラエル軍に神さまからの指令を伝え、イスラエル軍を有利に導いていたエリシャを捉えようと、敵アラム軍がやって来て、町を包囲しました。
 すると、エリシャは神さまに祈り、従者の目を開くようにお願いしました。神さまがその願いを聞いて、従者の目を開いたところ、通常では見えるはずのない神の軍隊が、エリシャたちを囲って守っていることが見えたのです。
 エリシャと従者の周りを、火の馬と戦車が囲んでいるのが見えました。そして、その数は敵の数よりも多かったのです。
 さて、神さまが準備された軍はその後どうしたでしょうか?敵のアラムを倒しに出陣したでしょうか?
 いいえ、そうではありませんでした。神さまは、エリシャを用いて、敵の軍を欺き、別の町へと移動させ、イスラエルと直接戦わないようにされたのです。
 その様子を見たイスラエルの王はエリシャにたずねました。
 「わたしの父よ、わたしが打ち殺しましょうか、打ち殺しましょうか」
 イスラエルの王の目に映っていたのは、敵であるアラムが神さまの計画によって追われた時、今こそ、敵を倒す機会だということでした。
 ところが、イスラエルの王から問いかけを受けたエリシャは、思いも掛けないことを話したのです。
 「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
 神さまは、イスラエルの王に戦いを命じるのではなく、敵をもてなすための宴会を開かせ、敵が食事に満足して、国へ戻り、二度とイスラエルを攻めようとはしなかったのです。

 この話を聞いて、これは単に聖書の中だけの話しと思うでしょうか?
いいえ、今この世において、国と国が、人と人が考え方の違いから、敵対して対立し、武力で争おうと考えた時、武力を使わない解決方法があるのだということを、私たちは思い描かないといけないでしょう。
 私たち、神さまを信じる者がなすべきことは、神さまに祈り、神さまから示される解決方法。武力によらず、問題を解決する方法を願い求め、与えられた方法で和解し、神さまのみ心にかなう道に進むことが私たちに求められているのだと思います。

 多くの国が、自分たちの国のことだけを、いえ、自分のことだけを考えようとしている時こそ、神さまに解決策を求め、互いに愛し合うべき存在であることを覚えて、国と国が、人と人が共に暮らすことができる世の中を求めて行くべきではないでしょうか。
 その答えが、聖書の中にあると思います。そしてなにより、敵をも愛し、敵から十字架につけられた時でも、敵を許された主イエスの愛に私たちは、ならいたいと思います。

「非難された人々」

聖書 ミカ書 6章6節~8節
   ルカによる福音書 11章37節~54節

 みなさん、おはようございます。

 福音書の中で語られているイエスさまは、伝道の始めから、ファリサイ派の人々や律法学者たちと真っ向から対立していたのではありません。伝道を開始したころ、イエスさまは弟子たちと共に安息日に、ユダヤ教の会堂に行って聖書の言葉を聞き、その後、神さまのことについて人々に話しをされました。
 そして、会堂に集まっていた一般の人々も、ファリサイ派の人たちや律法学者たちも、イエスさまが神さまのことについて話しをしている、ということを認めていました。

 ところが、ルカによる福音書では、野原の説教と呼ばれる、11章のベルゼブル論争のあたりから、イエスさまが説かれている神さまに対する信仰と、ファリサイ派や律法学者たちが人々に勧める信仰との違いが明らかになってきました。
 イエスさまが、野原での説教を終えたとき、ファリサイ派の人から食事の席に招かれたので、出かけて行かれました。
 当時の人々にとって、自分の家で食べる食事に他人を招くことは、その人との関係が親しい者であったり、その人を尊敬していることを表す行為でした。
 当時、聖書に書かれている律法の掟だけでなく、先祖からの言い伝えによる清め。聖別の儀式を重んじていたファリサイ派の人々は、食事を取る前、手を水の中に浸すということをしました。
 これは、聖書に基づくことではなく、先祖からの言い伝えによるものでした。家の外で知らない間に、汚れたものに触れたかもしれないということから、自分をきれいなものにしようとする、人間中心的な、きよめの儀式でした。
 そのことに対し、イエスさまは意識してかあるいは、意識しないでかは分かりませんが、食事の前に手を水に浸して清めるということをなされませんでした。

 その様子を見たファリサイ派の人。おそらく、その人は、イエスさまを食事に招いた、その家の主人と思われますが、神さまのことを伝えるイエスさまが、なぜ、自分を清めるという儀式をしないのかと、不審におもったのです。
 38節で、「不審に思った」とありますが、おそらく、その家の主人であるファリサイ派の人は、イエスさまは本当に神さまのことを伝える人物として、相応しい人であるかどうか、という点に疑問をもちました。
 すると、イエスさまは、彼の心の中を見られて、手を水で清めなかった理由について話しを始められました。
 39節から41節で、イエスさまは、ファリサイ派の人々は、先祖からの言い伝えに固執して、見かけ上、自分自身を清める行いを、神さまの御心に従って行うのでなく、自分たち自身の心の中から生じる思いから、しているのだと指摘されました。
 彼らの心の中にある思いは、「強欲と悪意」だと、39節で言われています。強欲も悪意も人の心の中から出て来るものであり、神さまから与えられたものではありません。
 そして、41節で、イエスさまは、「ただ、器の中にある物を人に施せ。」と言われました。これは、人の心の中にあるものを施せといわれたのではなく、マタイによる福音書23章26節を見ると、まず、自分の内側を清くしなさいとありますから、器の中。心の中に神さまの愛を満たし、そこから出るものを人に施しなさいと言われているのです。
 器の中に相当する、心の中を神さまの愛で満たすなら、心の中だけでなく、外側も清くなると、イエスさまは41節の後半で言われています。

 42節から44節にかけて、イエスさまは、繰り返してファリサイ派の人々が、外見上の行いに捕らわれ、神さまの御心を知ろうとしていないことを批判されました。
 薄荷(ハッカ)と訳されているミントや、芸香(うんこう)と訳されているコヘンルーダは、ファリサイ派の人々が収入の十分の一を献げる献金の一部として誇っていた香草です。
 当時のユダヤ人は、小羊や山羊を神殿で燃やしてその香りを神さまに献げたように、香草を燃やしてその香りを神さまに献げました。
 42節でイエスさまは、収入の十分の一を献げること自体を批判されたのではなく、神さまに何か目に見えるものを献げることよりも、神さまの御心をこの世で行うこと。「正義の実行と神への愛」が大切ですと教えられました。
 43節では、ファリサイ派の人々が、人々から尊敬されることだけに心を向けていることを非難されています。
 そして、44節で言われたこと。「人目につかない墓のようなもの」とは、どういうことか。
 当時、地面の下に納めた墓は、その上を人が歩かないように、歩いて汚れが生じないように、白い石灰をまいて目印としていました。
 ところが、その目印がない墓ならば、誰かが気がつかずにその上を歩いてしまい、歩いた人が汚れてしまうということをいわれたのです。ファリサイ派の人々は、他の人々を汚すようなまねをしているのだという非難です。

 そういったことをイエスさまが言われたので、律法の専門家の一人が、イエスさまが言われたことは、ファリサイ派の人々だけでなく、律法の専門家も含めて侮辱することですよと、反論しました。
 すると、イエスさまは、律法の専門家たちに向けた非難を始められたのです。

 46節の言葉。「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」とは、彼らが、律法の掟を必ず守るようにと言っているのに、自分はその掟を守ることができず、また、掟を守るように助言をすることさえしていないではないか、ということです。

 47節から52節までの言葉。
 彼らが、「預言者たちの墓を建てている」というのは、当時すでに、ヘブロンにある族長たちやヤコブの子らの墓とか、エルサレムにあるダビデ家の緒王の墓に、人々が巡礼していたことを指しています。律法学者たちは、先祖が殺してしまった預言者たちの墓を巡礼することを熱心に奨励していました。
 しかし、熱心に墓の巡礼を勧める律法学者たちは、先祖と同様に、預言者からの悔い改めの呼びかけに少しも聞き従わないではないかと、イエスさまは非難されているのです。神さまからの悔い改めの呼びかけに聞き従わないあなたがたは、先祖と同罪だと言われています。
 そして、自らの罪だけでなく、イエスさまが伝えておられる福音を人々が聞かないように邪魔をしているとさえ、言われているのです。

 これらの、イエスさまによるファリサイ派の人々、律法の専門家たちに対する非難によって、彼らは、イエスさまに対する激しい敵意を抱き始め、この時以降、彼らは、イエスさまの言葉じりをとらえて、何とか反撃したいと思い始めました。
 53節、54節で、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちはイエスさまに対する敵意を持ち始めましたが、この時点では、まだイエスさまを何とか排除しようという思いにまでは至っていません。この後、繰り返しイエスさまとの論争、そして、イエスさまのところに多く集まってくる群衆の様子を見て、彼らはイエスさまをねたみ、何とか排除しようという思いへと変わっていったのです。

 また、ファリサイ派の人々や律法が学者たちに対するイエスさまの非難は、イエスさまだけがされたのではありません。イエスさまがこの世に来られるずっと前、預言者たちも、形だけの、外見上形を整えた儀式だけの信仰は、神さまがよしとはされないと告げていました。
 ミカ書6章6節から8節を見ると、
 6節、7節で、何を持って神さまの前に献げ物とすれば、神さまが喜ばれるだろうか?と、逆説的に預言者が語っています。
 すばらしい子牛をもって行けばいいのか、あるいは、尽きることがないほど多くの雄羊を献げて、その動物の命を献げれば神さまは喜ばれるのか? そして、挙げ句の果てに、自分の子どもさえ献げるなら、神さまは喜んでくださるだろうか?と、自問自答する言葉で語られています。
 しかし、6節、7節のことは、どれも神さまが喜ばれることではなく、8節の後半。
 「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと」こそが、神さまが喜ばれる献げ物であると、ミカは人々に告げていました。
 ファリサイ派の人々も、律法の専門家たちも当然この聖書の言葉を読んでいました。けれども、その言葉を聞いても、彼らは先祖からの言い伝えを大切にして、人が自ら思うように、神さまを人間の側に引きずり下ろして、神さまを拝むことを続けていました。

 イエスさまが、ファリサイ派の人々を非難する言葉の中で、三つのことを言われています。
 一つ目は、律法の詳細な規則に細心の注意を払っている一方で、神さまの正義と愛を無視しているということです。
 どれほど、すばらしく見える礼拝を献げても、また、周辺の国々からすばらしいと見られていた、エルサレム神殿を建てたとしても、神さまの正義を行わず、神さまの愛によって生きることがなければ、形だけのものであり、人が何かをしているという、人間の行為に留まってしまう。
 神さまはそのような礼拝を、祈りを顧みられることはないということです。これは、聖書の時代だけでなく、今を生きる私たちも、私たちの教会も、毎週礼拝を献げる上で、気をつけなければなりません。
 決して、礼拝を私たちの勝手な思いで行うのでなく、神さまの正義が示されるように、神さまの愛があふれるように礼拝を守っていかなければならないのです。

 二つ目のこと。ファリサイ派の人々は、人々が集まる場所で、上座に座ることにこだわり、自分たちのプライドにこだわっている、ということです。神さまの前に進み出る時、私たちは、魂を打ち砕かれて、謙遜な思いで進み出ていかなければなりません。

 三つ目。彼らは、埋められた墓のように人々を隠れて汚す存在となっているということ。私たちの生活、生き方は、神さまによって生かされた生活として歩むべきであって、決して、私たちの生き方によって、他の人が、福音の言葉に、主イエスにつまづくことがあってはいけないのです。


 そして、イエスさまは律法の専門家たちにも三つのことを言われました。
 一つ目は、他の人々には、律法の言葉を守るように命じて、重荷を負わせているのに、自分には免除を求めているではないか。私たちも、聖書の言葉を取り上げて、人に語る時、聖書の言葉によって、他人を裁くことがあってはいけません。聖書に記されているみ言葉は、自分も他人もすべての人を生かす言葉として語られなければならないのです。

 二つ目のこと。死んだ預言者たちをほめたたえているが、その一方で実に彼らを殺すことに同意し、それに手を貸している。
 預言者たちが語った言葉に耳を傾けて、その言葉の中に示されている神さまの愛、神さまの正義を読み解いて、生きることがなければ、ただ、昔の預言者が語った言葉のままで、過ぎさってしまい、預言の言葉は生きた言葉として響いていきません。
 私たちが、聖書を読むとき、その言葉に示されている神さまの愛に聴くことなしに、信仰の道を歩むことはできず、私たちを生かす言葉になってこないのです。

 三つ目。彼らの生活とその教えとの間には大きな矛盾があって、そのことによって人々を混乱させているということ。

 日曜日には教会の礼拝に出席するけれど、それ以外の日は、この世の基準に従って、あたかも神さまを忘れたかのような生活をしてしまう。私たちは、決してそのような生活に埋もれてしまってはいけないのです。
 週の初めの日曜日に神さまから与えらるみ言葉によって、その一週間を生き生きと生きる。そのように、礼拝で語られるみ言葉が生活の中で輝かなければなりません。
 とはいっても、普段の生活のいそがしさや、苦しさに追い回されると、そうは言ってられないと思うかもしれません。
 確かに、二十四時間、神さまのことを思い続けなさいと言っても、絵に描いた餅で、人間である以上、だれもそれをすることはできないでしょうし、そうしなさいと言うことは、律法の専門家と同じことになってしまいます。
 では、どうすれば良いのか?

 一つの例を上げるなら、礼拝で聞いた聖書のみ言葉の一節。あるいは、ご自身がその週に読んだ聖書の言葉の中で、心に響いた一つのみ言葉。そのみ言葉を、その週の間、繰り返し、ご自分の心の中で繰り返し口ずさみ、神さまから与えられた言葉として大切に過ごしてみるのはいかがでしょうか?
 聖書に書かれている言葉、イエスさまが語られた言葉。どれも聖霊によって導かれて、文字に書き留められた言葉です。その言葉の一つを自分の生活の中で、その週の糧として、繰り返し口ずさみ、その言葉に示された神さまの愛の中に生きるなら、その人の生活は、主イエスを証しする生活となるはずです。

 ミカ書6章8節に記された主のみ言葉。
 「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

 このみ言葉を、今週のみ言葉として、歩んで行きたいと願います。

十字架上の七つの言葉 Ⅱ

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」         ルカによる福音書 23章43節

 二つ目の言葉は、主イエスが十字架の上で話された言葉の中で、唯一、呼びかけに対する応答として語られた言葉です。

 主が十字架に架けられた時、二人の罪人が主の両側で共に十字架に架けられました。二人とも重い罪を犯した罪人でした。この二人が死を目前にした時、一人は主イエスがメシアであることを聞いて、主イエス自身と自分たち罪人を救えとののしりました。彼の言葉は、主イエスをまことの救い主として信じていない心から出た言葉でした。

 ところが、もう一人の罪人は、自分たちはやったことの報いを受けているが、主イエスは何も悪いことをしてない。ただ、「あたなの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。二人目の罪人は、死を目前にして、主イエスを救い主として信じる心からこのことを言ったのです。
 すると、主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と応えられました。

 罪がある者であっても、心から主イエスをメシアと信じ、告白する者には、罪を赦してくださり、主イエスと共に主なる神さまのご支配の中に迎えてくださるということ。そのことを主イエスは十字架の上で語られたのでした。

99匹と1匹の羊

 みなさんは、99匹と1匹の羊のたとえを聞いたことがあるでしょうか?
 イエスさまが、大勢の人々に神さまのことを話していた時、その場にやって来た子どもたちを、弟子たちが追い返そうとしました。
 イエスさまに従っていた弟子たちは、その時、とてもいそがしくて疲れているイエスさまが、これ以上、子どもたちによってわずらわされないように、という思いだったのでしょう。
 ところが、イエスさまは、子どもたちを帰そうとした弟子たちに注意され、子どものように小さなものを、軽く見てはいけないと言って、有名な羊のたとえを話されました。

 羊のたとえは、百匹の羊を持っている人がいて、その中から、1匹の羊が迷い出ていなくなったら、持ち主は残りの99匹を山に残したまま、迷い出た1匹を探しに行くにちがいないという話しです。

 経済的な物の見方なら、1匹の羊より、99匹の羊の方が大切なはずです。けれども、私たちを愛してくださる神さまは、神さまのところから迷い出た 1匹の羊を探し出して下さり、見つかれば大喜びされると言わるのです。
 迷い出た1匹の羊は、小さい者をたとえていますが、この世で苦しみ、悲しみを感じている人のことだけではありません。普段生活をしていて、何も困ることはない、特別の不足も感じていないと思っていても、この世界を創られた神さまのことを、心に思い描かない人も、神さまから見ると、この  1匹の羊にたとえられているのです。

 この話しについて、興味をもたれた方、もっと詳しく知りたいと思われた方は、ぜひ、宇都宮東教会へお越しください。あなたが来てくださることを、心からお待ちいたしております。