2020-03-29 今週のみ言葉

「そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。」            イザヤ書 63章8節b~9節 

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
             ヨハネによる福音書 12章24節 


 ヨハネによる福音書12章24節の言葉は、イエスさまが十字架に架けられるご自分を麦の種にたとえて話された、有名な聖句です。
 この言葉は、過ぎ越しの祭の時に礼拝するためにエルサレムに上ってきた何人かのギリシア人がイエスさまにお目にかかりたいと頼んだ時、それを取り次いだ弟子のアンデレとフィリポに向けて話されました。
 主イエスの言葉は、直接弟子だけに語られているようにも思えますが、エルサレムに来たギリシア人とは、ギリシア人であっても、ユダヤ教を信じていた人々でした。つまり、この世界を創られたまことの神さまを礼拝する人々です。
 その人々に向けても、この言葉が語られたということは、主イエスの十字架の死は、ギリシア人であっても、主なる神さまを信じる人のために、神さまがその独り子を献げてくださるということ。そして、それに続けて語られていることは、主を信じるすべての人に向けて語られた言葉でした。

 「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
 十字架での受難を目前に、主イエスはわたしたちに、これから起きる出来事の意味を語ってくださったのです。この言葉に、すべての人に向けた救いが告げられています。

2020-03-22  今週のみ言葉

「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」              サムエル記上 10章1節 

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」
             ヨハネによる福音書 12章7節 

 主なる神さまからの恵み。それは、罪のために死すべき運命にあった私たち人間に、神さまからの愛として。また、神さまご自身がアブラハムを通して与えた契約に誠実であって、決して神さまの方から破ることのない契約として与えられたものです。それは、単に私たちがこの世で幸せであるように、ということだけでなく、死から生へ。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して与えられた、まことの命につながる恵みでした。
 その恵みを受けて、私たちは、この世において、また、後の世においていつまでも主が共にいてくださる恵みの中で生きることができる、という約束です。イエスさまは、これからご自分が十字架で死を迎えることを知られた上で、マリアから尊敬を表すために注がれた香油を、自分が葬られるために注がれた油だと話されました。
 この世界が神さまによって作られたにもかかわらず、自らの勝手な思いで、神さまのみ手の外に出てしまった人間です。しかし、神さまはどこまでもひたむきに、私たちを愛し、神さまのみ手の中に留めるために、イエスさまを十字架に架けられ復活させられました。その出来事は、神さまのみ手の業であり、決定的にただ一度限り。わたしたちの生死を支配している神さまのみ怒りから、み恵みへと変えられる出来事でした。

2020-03-15 今週のみ言葉

 「諸国の民から自由な人々が集められ アブラハムの神の民となる。」           詩編 47編10節

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
     エフェソの信徒への手紙 1章23節

 教会とは何でしょうか? 新約聖書に書かれている「教会」という日本語は、ギリシア語では「エクレーシア」と言い、「エクレーシア」には、元々呼び集められた人という意味があります。
 旧約には、教会という言葉がありません。しかし、「神の民」という言葉があります。「神の民」とは、神さまがこの世の中から選び出して、主なる神さまを信じるようにと、集められた人々のことです。
 唯一の神さまだけを信じるという点では、「教会」も「神の民」も同じです。しかし、「教会」は、すでにこの世に来てくださった救い主。神の子キリストを頭として、互いに結ばれているという点が違っています。

 神さまが選ばれた人に違う点があっても、信じる人がすべてキリストにつながり、同時にお互いがつながっている。そして、互いに足りない部分を補い合う。そこに神さまの愛が示されています。

 「主にあってひとつ」という言葉こそ、「教会」を表す言葉ですし、パウロが言うように、神さまを信じる人々が集まるところに、主の霊が、聖霊が満ちているのが「教会」なのです。

2020-03-08 今週のみ言葉 

 「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」                     イザヤ書 8章8節

 「主よ、信じます」    ヨハネによる福音書 9章38節

 預言者とイエスさま。どちらも、神さまから遣わされた方、という点では同じです。しかし、決定的に違うのは、預言者は人であり、イエスさまは神さまであると共に、人でもあります。
 預言者が神さまから命じられて、預言として話すことは、神さまの力によって実現します。預言者本人の力が働くわけではありません。
 それに対し、イエスさまが語られる言葉は、そのまま神さまの言葉ですから、何かを命じられたら、その命じられたことが起こります。
 新約聖書に書かれている、病を治す話しや、悪霊を追い出す話し。どちらも、イエスさまが神さまとして命じた言葉が、力をもって直接働いています。

 イエスさまは、十字架の死の後、復活して天に昇られたので、今わたしたちは、直接見ることはできません。しかし、聖書に書かれているイエスさまの言葉は、いつまでも残っています。その言葉に力があると信じるなら、わたしたちの願いは、神さまの御心に沿っている限り、何でもかなえられるでしょう。
 しかし、イエスさまの言葉を、単なる倫理的なよい生き方をする教えと考えてしまうなら、力を発揮することはできません。

 イエスさまの言葉を、力ある言葉として信じ、その言葉によって日々の生活を生きることが、わたしたちの力となるのです。

2020-03-01 今週のみ言葉

 「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」 歴代誌上 21章1節

 「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」 マタイによる福音書 4章1節

 聖書に書かれているサタン。悪魔とも言う存在ですが、この世界を創られた神さまが、サタンも創られたとは書いてありません。エデンの園で生活していたエバのところに突然現れるというところから、サタンが聖書に登場します。そして、聖書の所々で、姿を現しています。
 サタンが姿を現して、何かをしようとする時は、働きかける相手が神さまによって、祝福されている。とても良い状態の時に現れることが多いように思えます。ダビデを誘惑したサタンは、ダビデが勝利した戦果を数え上げた後に出てきます。また、ヨブ記の最初に登場するサタンは、ヨブがとても幸せな時に、不幸を持って訪れます。ダビデもヨブもサタンの力の前に、なすすべはありませんでした。ヨブ記を読むと、サタンは神さまの権威の前に服従するものですが、人間に対しては、大きな力を振るいます。
 ところが、神さまであり人であるイエスさまの前に登場したサタンは、イエスさまを誘惑しようとしますが、イエスさまが語られた言葉によって退けられてしまいます。

 イエスさまを誘惑しようとしたサタン。この出来事は、イエスさまは人であったゆえに、サタンからの誘惑を受けたということです。そして、神さまでもありましたから、サタンの誘惑を退けることができました。しかし、サタンの誘惑は、イエスさまが人である限り、イエスさまの人生の中で、繰り返し訪れることになるのです。