十字架上の七つの言葉 Ⅲ

 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。」 ヨハネによる福音書 19章26節、27節

 三つ目の言葉は、主イエスの最期を見届けるために十字架の足元で悲しむマリアと、主イエスの弟子にかけられた言葉です。

 この言葉の後に語られる言葉はすべて、ご自身が独り言のように語られる言葉になりますので、そばにいた人に語られた最後の言葉です。主がその命を神さまに献げる直前、主イエスの死によってこの世に残される母マリアのことを弟子に託すことは、私たちがこの世を去るときに、残された家族のことを、信頼できる人に託すことと重ねて見ることができるのではないでしょうか。

 主は私たち人間を、すべての人の罪を赦すために、たった一人苦しみを受け、十字架にかけられました。けれども、一人で担われた苦しみをただ嘆くだけでなく、残された人々に向けて、最後まで主の愛を注いでくださったことは、私たちに神さまの愛を知らせるものです。そして、その愛に私たちが希望を持って期待することができるという、神さまの愛の大きな恵みではないでしょうか。

 ゴルゴタの丘の上で、ある人は、主の十字架を見上げて、自分を救うこともできないメシア(救い主)だと、罵りましたが、罵られても、その相手を罵り返さず、最後まで私たちを、そして、親しい人にも愛を注ぎ続けてくださったこの方が、私たちのまことの救い主なのです。

十字架上の七つの言葉 Ⅱ

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」         ルカによる福音書 23章43節

 二つ目の言葉は、主イエスが十字架の上で話された言葉の中で、唯一、呼びかけに対する応答として語られた言葉です。

 主が十字架に架けられた時、二人の罪人が主の両側で共に十字架に架けられました。二人とも重い罪を犯した罪人でした。この二人が死を目前にした時、一人は主イエスがメシアであることを聞いて、主イエス自身と自分たち罪人を救えとののしりました。彼の言葉は、主イエスをまことの救い主として信じていない心から出た言葉でした。

 ところが、もう一人の罪人は、自分たちはやったことの報いを受けているが、主イエスは何も悪いことをしてない。ただ、「あたなの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。二人目の罪人は、死を目前にして、主イエスを救い主として信じる心からこのことを言ったのです。
 すると、主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と応えられました。

 罪がある者であっても、心から主イエスをメシアと信じ、告白する者には、罪を赦してくださり、主イエスと共に主なる神さまのご支配の中に迎えてくださるということ。そのことを主イエスは十字架の上で語られたのでした。

十字架上の七つの言葉 Ⅰ

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 ルカによる福音書 23章34節

 主イエスは、十字架の上で7つの言葉を語られたと福音書は伝えています。受難週、受難日に向けてこれらのみ言葉を味わいたいと思います。

 最初の言葉は、十字架につけられたイエスさまに対し、十字架を見上げてただ立ちつづけている者、十字架の下を通り、侮蔑の言葉を上げる者。十字架の下でイエスさまの服をクジで分け合う兵士たち。これらの様子の中で語られた言葉です。
 この言葉は、今イエスさまが見ている人々だけに向けられた言葉ではありません。その当時の人々だけでなく、すべての時代のすべての人に向けて語られた言葉です。

 その言葉に込められた意味は、人の罪はどれほど重く、また、その意味を知らない人がどれほど多くいることか、と主イエスは嘆いておられるのです。
 けれども、嘆かれているだけではありません。イエスさまは大祭司としての役目を担っていると言われますが、大祭司として、すべての人の罪を赦すために、ご自身の血を流して、神さまにとりなしの祈りを献げているのです。

 そのことにより、私たちの罪が赦されるのです。私たちは、祈りの最後に、イエスさまのお名前によって祈りますと、言います。これは、十字架の上で血を流し、私たちの罪を取り成してくださった方の名によって、神さまに祈らせていただいています、ということなのです。