「聖霊」カテゴリーアーカイブ

今週のみ言葉「聖霊が働いてくださる」

(かみ)(したが)(ひと)信仰(しんこう)によって()きる。」 ハバクク書 2章4節

(はじ)めから()いていたことを、(こころ)にとどめなさい。(はじ)めから()いていたことが、あなたがたの(うち)にいつもあるならば、あなたがたも御子(みこ)(うち)に、また御父(おんちち)(うち)にいつもいるでしょう。これこそ、御子(みこ)がわたしたちに約束(やくそく)された約束(やくそく)永遠(えいえん)(いのち)です。」
               ヨハネの手紙一 2章24、25節

 私たちが、神さまを信じる、信仰するとは、どういうことでしょうか?

 ありがたいもの、不思議なもの、力あるものを崇め祭るということではありません。決して変わることがない、力あるもの、信頼できるものに寄り頼み、その方の、み守りの中に入れていただきたい。ということが、「信じる」ということを表す一つの表現でしょう。そして、守られるだけでなく、この世での生命も、この世での生命が終わった後も、確かなものによって生き続けたいという願いが、「信仰する」ことではないでしょうか。

 「信仰の父」と呼ばれているアブラハムは、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)とあるように、主から与えられた信仰によって、義(正しい人)とされて、彼の子孫すべてが祝福を受け、神さまにつながる者とされるようになりました。  この世界を創られ、支配されている、決してゆるぐことのない方を信じることは、「信じさせていただく」ということであり、その信仰は、神さまからわたしたちに、主イエスによる十字架の恵みを通して与えられるものです。神さまが私たち人間の歴史の中に入ってきてくださり、この大きな恵みを与えてくださったことの感謝を忘れずに過ごしたいと思います。

今週のみ言葉「聖霊が与えられると」

「その()以来(いらい)(しゅ)(れい)(はげ)しくダビデに(くだ)るようになった。」
                 サムエル記上 16章13節

「すると、一同(いちどう)聖霊(せいれい)()たされ、“(れい)”が(かた)らせるままに、ほかの国々(くにぐに)言葉(ことば)(はな)しだした。」    使徒言行録 2章4節

 聖書に書かれている神さまの呼び方で、「聖霊」という呼び方は一番なじみがない呼び方ではないでしょうか。また、教会に来たばかりの人は、何かよく分からないものだと思われるかもしれません。

 「聖霊」は、天の父なる神さまと同じように、わたしたちの目で直接見ることはできません。しかし、「聖霊」が働く時、その働きを直接目にすることができます。聖書で「聖霊」、主の「霊」が人間に与えられると、その人は神さまから伝えられた言葉を話したり、イエスさまが教えられた福音を話すことができるようになります。それは、人間が学んだ限りある知識では決して理解することができない、神さまの愛、救い主イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の生命。これらのことは、「聖霊」が与えられることで、確信を持って理解することができ、また、他の人に伝えることができるようになると、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一 12章3節に書いています。

 使徒言行録2章3節では、聖霊が目に見えるような形で弟子たちに与えられました。そして、弟子たちが主イエスから教えられた福音を、聞く人々すべてが理解できる言葉で話したことで、聖霊が確かに降ったことが分かりました。  わたしたちも、イエスさまを救い主として信じることができるように、確信を持って希望を抱き続けることができるように、聖霊が与えられるように、と祈り続けたいと思います。

今週のみ言葉「私たちを照らすもの」

「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり あなたの神の御手の中で王冠となる。」         イザヤ書 62章3節

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」
              ルカによる福音書 24章32節

 「心が燃える」時とは、どんな時でしょうか? 人は、恋をすると胸が苦しくなることがあります。それは、相手を思う心、愛する心が芽生えるからではないでしょうか。
 神さまは、モーセに十戒を与えるとき、御自身は「熱情の神」であると言われました。私たち人間を愛する熱い思いを持っておられるということです。
 そして、神さまの栄光は、光にたとえられています。光は明るく、また、熱いものです。神さまの栄光を現す光は、暗闇を照らし、暗いものを押し出し、悪を退けます。主の正しさが、この世に大きな力として示されます。

 主イエスの復活の出来事は、まさしく、主なる神さまの正義が、栄光がこの世に光として指し示された出来事でした。この光は、14世紀にヨーロッパでペストが大流行したときも、今、新型コロナウイルスが広がっているときも、決してその明かりが消えることはありません。
 暗闇の中を歩くとき、光が導き手となるように、わたしたちは、神さまから与えられている、光によって。主イエス・キリストの復活の光に照らされたて、このとても不安な状況の中にあっても、日々一歩ずつ、主のみ言葉を生命の糧として、歩みつづけたいと思います。

すべてを見ておられる神さま

聖書 旧約 イザヤ書 51章4節~8節
   新約 ルカによる福音書 12章1節~12節

 みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。

 イエスさまが、ファリサイ派の人の家での食事に招かれ、その席でファリサイ派の人々と律法の専門家たちを非難し、その家から出られた時。数えきれないほどの群衆が集まってきたと、ルカは告げています。
 ユダヤの人々にとって、自分たちの生活に密着して、権威を持つと考えていたファリサイ派の人々や律法の専門家たちを非難する先生とは、どういう人だろうか? あるいは、イエスさまが非難した人々の偽善を見て、ふだんからイエスさまと同じような思いを心の中に抱いていた人たちが、たくさんイエスさまのところに集まってきたのかも知れません。
 一体何人の人がその場所に集まってきたのか、ルカは書いていませんが、どういう場所であったにせよ、「足を踏み合うほど」人がイエスさまの周りを取り囲んだということは、イエスさまに対する人々の関心の高さを示す出来事でした。

 それほどまでに人々が押しかけてきた時、イエスさまはまず弟子たちに話し始められました。1節、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
 イエスさまが、ファリサイ派の人の食事の席に招かれた時、おそらく12人の弟子たち全員が一緒にその席に出かけたのではなかったでしょう。数名の弟子はイエスさまと一緒にその席にいたかもしれませんが、全員は同席していませんでした。
 そこで、イエスさまは、ファリサイ派の人々に向けて語られたことを別の言葉で、弟子たちに話し始められました。
 パン種とは、パンを焼く前に小麦粉に混ぜる酵母菌のことで、発酵することでパン生地を膨らませます。
 新約聖書の中で、パン種という言葉が語られる時、良い意味でも悪い意味でも使われています。今日の箇所では、悪い意味で使われています。
 パン種が発酵する様子から、「腐敗」というイメージで捉えて、イエスさまは、ファリサイ派の人々の言葉、行動が「偽善」であると言われました。
 偽善の言葉を語り、偽善の行いをする人は、そのことが周囲の人々から見られたとき、偽善であることが分からないようにしようとします。けれども、神さまから見られると、それが偽善であることはすぐにわかります。 また、偽善にはどこか矛盾があり、やがて周囲の人々にも彼は、彼女は、偽善の言葉で話し、偽善の行いをしていると分かってしまうのです。

 しかし、イエスさまが1節から3節で、弟子たちに語られたことは、単に良く取り繕って見える「偽善」のことだけではありませんでした。3節に、「あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」とあります。主イェスを自分の先生として従い、神さまから遣わされたメシア。救い主と信じるようになった人が、この世の中で、神さまを信じない人々からつらく当たられたり、迫害を受けたりした時、イエスさまから教えられたことを隠すことはしていませんか?と、イエスさまが言っておられるのです。
 福音書を書いたルカは、ルカが属していた教会の人々にこの福音書を読んでもらいたいと思って書いています。そして、ルカが教会で信仰生活を送っていた頃、ユダヤ人だけでなく、ローマからも、キリスト者に対する迫害が始まっていました。
 そこで、キリストを信じて、信徒となった人が、福音の教えを誰にも聞かれないようにと考えて、こそこそと語るのではなく、人々の前で明るいところで語り伝えていくべきだ、ということをイエスさまの言葉によって伝えているのです。

 イエスさまは、弟子たちにファリサイ派の人々の教えに注意しなければならないと教えた後、今度は、「友人」と呼び掛けた、イエスさまの周囲に集まってきた群衆に向けて話し始められました。
 4節。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」
 私たちに与えられている生命は、70、80年。長く生きても100歳過ぎぐらいまでしか生命をつなぐことはできません。
 けれども、この世での生を終わった後、神さまの御手の中に置かれる。神さまの御支配の中に永遠に置かれると考えるなら、この世での短い時間のことよりも、この世での生を終わった後、永遠に続く神さまの御支配のことを考えなければならないと言うことは、容易に想像することができるでしょう。

 イエスさまはここで、2つのことを言っておられます。一つ目は、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」を恐れなさいということ。
 この世での生を終えた後の人を、私たちは、この世にいてどうすることもできません。既に肉体と魂を失った人を、私たち人間がどうこうすることはできないのです。
 では、誰がその人に影響を与えることができるのか?
 それは、この世界を創られ、私たちの世界、そして、この世での生を終わった後も支配されている神さまだけが、そのことに関与することができる方であると、イエスさまは言われているのです。

 聖書の中で、取り上げられる、私たちの生命が終わった後のことについての記述。それは、一人ひとりがどうなるかと言うことよりも、この世の終わりに、裁きを行い、また、裁きの結果救いへと招かれる方が来られる時のことが、黙示と呼ばれる文書の中に。新約聖書ではヨハネの黙示録や、福音書の中で語られています。
 その預言は、日本の仏教で語られている、生前の行いに応じて報いを受け、極楽又は地獄に行くということではありません。
 ただ、神さまの憐(あわ)れみ、恵みによって選ばれた人たちが救いに与(あずか)ることができる、ということです。
 人間がこの世で生きている間に行った良いことや悪いことの評価で、将来が決まるとは言われていないのです。
 しかし、だからといって、この世で何をしてもよいということではありません。
 神さまからの呼び掛けに応えて、神さまから信仰をいただき、神さまに従って歩むこと。そのことを、神さまからの招きに応えて歩むことができた人は、確実に、この世の終わりの審きの時に、神さまのもとへと招かれると預言されています。

 6節で書かれている5羽の雀。当時、ユダヤの人々は、食用に雀類の小鳥を食べていたようです。そして、二アサリオンという値段は、今のお金に換算すると十円程度の価値です。
 日常生活の中で、十円で何かを買えるかというと、ほとんど買えるものはありません。それほどまでに、価値のない小鳥であっても、その命を神さまが忘れることはなく、マタイによる福音書では、神さまの許しがなければ、小鳥の命が取り上げられることはないと言われています。

 そして、小鳥よりもはるかに価値があると、私たちが考えている人間について。神さまは、私たちが互いに知っている関係以上に、私たち一人ひとりのことをご存知で、一人ひとりの髪の毛の本数までご存知であると言われています。
 イエスさまが、髪の毛をたとえとして言われたのは、当時のユダヤ人たちが、人の力は髪の毛に宿っていると考えていたからかもしれません。
 旧約聖書に登場し、怪力で知られているサムソンという人物は、母親が子どもを授かる前から神さまに祈り、生まれてきた子どものサムソンを神さまに献げ、神さまに仕える人として育てられました。そして、神さまにその生涯を献げた人は、神さまからいただいた力を失うことがないように、髪の毛を切ることをしませんでした。
 そのことをユダヤ人たちはみな知っていましたので、髪の毛の本数のことを言われたのかも知れません。
 そして、神さまがいつも見ていてくださる私たちは、少しの額のお金で売り買いされている雀よりもはるかに値の高い者であるから、神さまは私たちのことをおろそかにはしないのだと、イエスさまが言われたのです。
 髪の毛の数まですべて知っておられるということは、すべての人の人生を、この世に生まれる前、お母さんのお腹の中にいるときから、この世での生を終わるまで、すべてご存知であるということなのです。
 私たちが、すべてを知っておられる方の前に出なければならないなら、私たちはどうすれば良いのでしょうか?

 さて、それらのことを語られた後、イエスさまは、こう言われました。
 8節。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」
 イエスさまが、伝道活動をされていた時、ご自身が伝えておられたことは、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい。」ということでした。
 神さまがこの世を御支配される時は既に来ている。そして、神さまがこの世を裁かれる時が、日々近づいている。だから、私たちは自分自身の罪を悔い改めて、神さまを信じなければならない。イエスさまが、福音と言われている、主イエス・キリストの十字架の死による罪の贖(あがな)い、永遠の生命に至る道。これを信じなさいと。
 そのことを自分は信じ、また、多くの人に伝え、伝えていると公に告白する。 そう表明する人は、「人の子」と言う言葉で、ご自身を示されたイエスさまは、十字架での死の後、復活され、天に昇り、私たちがこの世での生を終えた後、神さまの御手の中に迎えられる時、私たちをイエスさまの仲間であると。神さまを信じてこの世での生を送った人であると、言ってくださると言われています。
 言い替えるなら、私たちが神さまの前に呼び出されたとき、イエスさまが私たちのことを弁護してくださるということです。

 しかし、この世で神さまからの呼び掛けに応えて、神さまを信じる信仰を与えられることがなかった人は、この世での生を終えた後、神さまのところに呼び出されても、イエスさまはその人を知らないと言われ、私たちの将来は何も約束されていないのだと言われます。

 また、10節の言葉。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」
 この言葉の意味は、よくよく確かめて聞かないと、非常に分かりづらいものになっています。
 なぜなら、キリスト教で、父なる神さま、子なるキリスト、聖霊なる神さまはみな、一つの神さまであると考えているからです。
 その理解で読むと、神さまの子であるイエスさまの悪口を言う人は赦されるけれども、聖霊なる神さまを冒瀆する者は赦されないと聞こえてくるからです。

 では、どのように解釈すれば良いのでしょうか?
 はじめに、人の子と言われているイエスさまの悪口を言う者。この人は、イエスさまが神さまから遣わされた方であることを、まだ知ることができていない人を指しています。まだ知識において、信仰においてイエスさまのことを知らない場合、イエスさまに対する悪口を言っても、神さまは赦(ゆる)してくださるだろうということ。

 それに対し、聖霊を冒瀆する者とは、イエスさまが復活の後天に昇られ、この世に作られた教会で、聖霊の働きを信じず、礼拝に集まる時、神さまを拝む姿勢さえ繰り返していれば救われると思っているなら、それは神さまが建てられた教会を侮辱し、教会の存続が成り立たなくなってしまう。
 その理由から、この世の教会を建てくださる聖霊の働きを信じないで、冒瀆する人の罪は赦(ゆる)されないと言われているのです。

 また、神さまの霊。聖霊の働きは、私たちの死の後から始まるのではないということが、11節、12節で語られています。
 ルカが書いた福音書を最初に読んだ教会の人々は、教会やキリスト者に対する迫害の中で、福音を語り続けなければなりませんでした。
 イエスさまの復活の後、この世に誕生した教会が、これからもこの世の中に立ち続けるために、イエスさまが語られた福音を証(あか)しし、イエスさまご自身がメシアであることをこの世に対して証(あか)ししていかなければ、地上の教会が大きくなることができません。
 そこで、迫害される人々が、「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたとき」、主イエス・キリストを証(あか)しするために、神さまから降(くだ)される聖霊が与えられ、キリストを信じる人に代わって、証(あか)しする言葉を授けてくれると、イエスさまは言われているのです。

 旧約聖書にある、イザヤ書は、預言者イザヤが人々に伝えた預言が治められています。この書は、少なくても3人のイザヤと呼ばれた預言者たちが預言した言葉だと言われています。
 1章から39章までが、第一イザヤ、40章から55章までが、第二イザヤ、56章から66章までが第三イザヤの預言として区分されています。
 第一イザヤは、主に、人々が神さまに対して犯した罪に対する裁きが語られ、第二イザヤ、第三イザヤは、罪を悔い改めた人々に対する神さまの救いが預言の中心的な事柄として語られています。

 今日読んだ、イザヤ書51章は、罪を悔い改めて、神さまの召しによって集められた人々に対する救いが語られています。
 そして、イザヤが預言したことは、イエスさまがこの世に来られたことで、実現します。51章4節の、「教えはわたしのもとから出る。」という言葉は、イエスさまが語られた言葉が、私たち人間に対する教えとなって与えられ、「わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」という言葉は、イエスさまが、この世の人々に対し、自分の罪を悔い改めようとしない人に対する非難の言葉であり、罪を悔い改めて神さまに応答する人に対する救いの言葉となることで、実現したのです。

 神さまからの言葉、憐(あわ)れみ、恵みは、イエスさまを通して、私たちに具体的に与えられました。そして、それは、イエスさまがこの世におられた時だけでなく、イザヤ書51章6節にあるように、この世がどのように変わったとしても、
 「わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。」ものであるのです。

 神さまの恵みは永遠に与えられるものであり、この世が終わりを迎える時まで、私たちが、神さまからの呼びかけに応え、救いへと招かれる機会を与えています。
 イエスさまが、たとえを用いて非難された人々のようにではなく、神さまの権威を恐れ、神さまが私たち一人ひとりを愛しておられることを知り、聖霊なる神さまの働きを心から信じて従う者となりたいと願います。

 聖霊なる神さまが、今ここに、私たちと共にいてくださる恵みは、イエスさまが十字架に架けられる前、弟子たちを通して約束されていたことであり、十字架と復活の出来事を通して、私たちに与えられている恵みです。

 今週もこの恵みの中を、日々、一歩ずつ信仰の道を歩んで参りたいと願います。