「非難された人々」

聖書 ミカ書 6章6節~8節
   ルカによる福音書 11章37節~54節

 みなさん、おはようございます。

 福音書の中で語られているイエスさまは、伝道の始めから、ファリサイ派の人々や律法学者たちと真っ向から対立していたのではありません。伝道を開始したころ、イエスさまは弟子たちと共に安息日に、ユダヤ教の会堂に行って聖書の言葉を聞き、その後、神さまのことについて人々に話しをされました。
 そして、会堂に集まっていた一般の人々も、ファリサイ派の人たちや律法学者たちも、イエスさまが神さまのことについて話しをしている、ということを認めていました。

 ところが、ルカによる福音書では、野原の説教と呼ばれる、11章のベルゼブル論争のあたりから、イエスさまが説かれている神さまに対する信仰と、ファリサイ派や律法学者たちが人々に勧める信仰との違いが明らかになってきました。
 イエスさまが、野原での説教を終えたとき、ファリサイ派の人から食事の席に招かれたので、出かけて行かれました。
 当時の人々にとって、自分の家で食べる食事に他人を招くことは、その人との関係が親しい者であったり、その人を尊敬していることを表す行為でした。
 当時、聖書に書かれている律法の掟だけでなく、先祖からの言い伝えによる清め。聖別の儀式を重んじていたファリサイ派の人々は、食事を取る前、手を水の中に浸すということをしました。
 これは、聖書に基づくことではなく、先祖からの言い伝えによるものでした。家の外で知らない間に、汚れたものに触れたかもしれないということから、自分をきれいなものにしようとする、人間中心的な、きよめの儀式でした。
 そのことに対し、イエスさまは意識してかあるいは、意識しないでかは分かりませんが、食事の前に手を水に浸して清めるということをなされませんでした。

 その様子を見たファリサイ派の人。おそらく、その人は、イエスさまを食事に招いた、その家の主人と思われますが、神さまのことを伝えるイエスさまが、なぜ、自分を清めるという儀式をしないのかと、不審におもったのです。
 38節で、「不審に思った」とありますが、おそらく、その家の主人であるファリサイ派の人は、イエスさまは本当に神さまのことを伝える人物として、相応しい人であるかどうか、という点に疑問をもちました。
 すると、イエスさまは、彼の心の中を見られて、手を水で清めなかった理由について話しを始められました。
 39節から41節で、イエスさまは、ファリサイ派の人々は、先祖からの言い伝えに固執して、見かけ上、自分自身を清める行いを、神さまの御心に従って行うのでなく、自分たち自身の心の中から生じる思いから、しているのだと指摘されました。
 彼らの心の中にある思いは、「強欲と悪意」だと、39節で言われています。強欲も悪意も人の心の中から出て来るものであり、神さまから与えられたものではありません。
 そして、41節で、イエスさまは、「ただ、器の中にある物を人に施せ。」と言われました。これは、人の心の中にあるものを施せといわれたのではなく、マタイによる福音書23章26節を見ると、まず、自分の内側を清くしなさいとありますから、器の中。心の中に神さまの愛を満たし、そこから出るものを人に施しなさいと言われているのです。
 器の中に相当する、心の中を神さまの愛で満たすなら、心の中だけでなく、外側も清くなると、イエスさまは41節の後半で言われています。

 42節から44節にかけて、イエスさまは、繰り返してファリサイ派の人々が、外見上の行いに捕らわれ、神さまの御心を知ろうとしていないことを批判されました。
 薄荷(ハッカ)と訳されているミントや、芸香(うんこう)と訳されているコヘンルーダは、ファリサイ派の人々が収入の十分の一を献げる献金の一部として誇っていた香草です。
 当時のユダヤ人は、小羊や山羊を神殿で燃やしてその香りを神さまに献げたように、香草を燃やしてその香りを神さまに献げました。
 42節でイエスさまは、収入の十分の一を献げること自体を批判されたのではなく、神さまに何か目に見えるものを献げることよりも、神さまの御心をこの世で行うこと。「正義の実行と神への愛」が大切ですと教えられました。
 43節では、ファリサイ派の人々が、人々から尊敬されることだけに心を向けていることを非難されています。
 そして、44節で言われたこと。「人目につかない墓のようなもの」とは、どういうことか。
 当時、地面の下に納めた墓は、その上を人が歩かないように、歩いて汚れが生じないように、白い石灰をまいて目印としていました。
 ところが、その目印がない墓ならば、誰かが気がつかずにその上を歩いてしまい、歩いた人が汚れてしまうということをいわれたのです。ファリサイ派の人々は、他の人々を汚すようなまねをしているのだという非難です。

 そういったことをイエスさまが言われたので、律法の専門家の一人が、イエスさまが言われたことは、ファリサイ派の人々だけでなく、律法の専門家も含めて侮辱することですよと、反論しました。
 すると、イエスさまは、律法の専門家たちに向けた非難を始められたのです。

 46節の言葉。「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」とは、彼らが、律法の掟を必ず守るようにと言っているのに、自分はその掟を守ることができず、また、掟を守るように助言をすることさえしていないではないか、ということです。

 47節から52節までの言葉。
 彼らが、「預言者たちの墓を建てている」というのは、当時すでに、ヘブロンにある族長たちやヤコブの子らの墓とか、エルサレムにあるダビデ家の緒王の墓に、人々が巡礼していたことを指しています。律法学者たちは、先祖が殺してしまった預言者たちの墓を巡礼することを熱心に奨励していました。
 しかし、熱心に墓の巡礼を勧める律法学者たちは、先祖と同様に、預言者からの悔い改めの呼びかけに少しも聞き従わないではないかと、イエスさまは非難されているのです。神さまからの悔い改めの呼びかけに聞き従わないあなたがたは、先祖と同罪だと言われています。
 そして、自らの罪だけでなく、イエスさまが伝えておられる福音を人々が聞かないように邪魔をしているとさえ、言われているのです。

 これらの、イエスさまによるファリサイ派の人々、律法の専門家たちに対する非難によって、彼らは、イエスさまに対する激しい敵意を抱き始め、この時以降、彼らは、イエスさまの言葉じりをとらえて、何とか反撃したいと思い始めました。
 53節、54節で、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちはイエスさまに対する敵意を持ち始めましたが、この時点では、まだイエスさまを何とか排除しようという思いにまでは至っていません。この後、繰り返しイエスさまとの論争、そして、イエスさまのところに多く集まってくる群衆の様子を見て、彼らはイエスさまをねたみ、何とか排除しようという思いへと変わっていったのです。

 また、ファリサイ派の人々や律法が学者たちに対するイエスさまの非難は、イエスさまだけがされたのではありません。イエスさまがこの世に来られるずっと前、預言者たちも、形だけの、外見上形を整えた儀式だけの信仰は、神さまがよしとはされないと告げていました。
 ミカ書6章6節から8節を見ると、
 6節、7節で、何を持って神さまの前に献げ物とすれば、神さまが喜ばれるだろうか?と、逆説的に預言者が語っています。
 すばらしい子牛をもって行けばいいのか、あるいは、尽きることがないほど多くの雄羊を献げて、その動物の命を献げれば神さまは喜ばれるのか? そして、挙げ句の果てに、自分の子どもさえ献げるなら、神さまは喜んでくださるだろうか?と、自問自答する言葉で語られています。
 しかし、6節、7節のことは、どれも神さまが喜ばれることではなく、8節の後半。
 「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと」こそが、神さまが喜ばれる献げ物であると、ミカは人々に告げていました。
 ファリサイ派の人々も、律法の専門家たちも当然この聖書の言葉を読んでいました。けれども、その言葉を聞いても、彼らは先祖からの言い伝えを大切にして、人が自ら思うように、神さまを人間の側に引きずり下ろして、神さまを拝むことを続けていました。

 イエスさまが、ファリサイ派の人々を非難する言葉の中で、三つのことを言われています。
 一つ目は、律法の詳細な規則に細心の注意を払っている一方で、神さまの正義と愛を無視しているということです。
 どれほど、すばらしく見える礼拝を献げても、また、周辺の国々からすばらしいと見られていた、エルサレム神殿を建てたとしても、神さまの正義を行わず、神さまの愛によって生きることがなければ、形だけのものであり、人が何かをしているという、人間の行為に留まってしまう。
 神さまはそのような礼拝を、祈りを顧みられることはないということです。これは、聖書の時代だけでなく、今を生きる私たちも、私たちの教会も、毎週礼拝を献げる上で、気をつけなければなりません。
 決して、礼拝を私たちの勝手な思いで行うのでなく、神さまの正義が示されるように、神さまの愛があふれるように礼拝を守っていかなければならないのです。

 二つ目のこと。ファリサイ派の人々は、人々が集まる場所で、上座に座ることにこだわり、自分たちのプライドにこだわっている、ということです。神さまの前に進み出る時、私たちは、魂を打ち砕かれて、謙遜な思いで進み出ていかなければなりません。

 三つ目。彼らは、埋められた墓のように人々を隠れて汚す存在となっているということ。私たちの生活、生き方は、神さまによって生かされた生活として歩むべきであって、決して、私たちの生き方によって、他の人が、福音の言葉に、主イエスにつまづくことがあってはいけないのです。


 そして、イエスさまは律法の専門家たちにも三つのことを言われました。
 一つ目は、他の人々には、律法の言葉を守るように命じて、重荷を負わせているのに、自分には免除を求めているではないか。私たちも、聖書の言葉を取り上げて、人に語る時、聖書の言葉によって、他人を裁くことがあってはいけません。聖書に記されているみ言葉は、自分も他人もすべての人を生かす言葉として語られなければならないのです。

 二つ目のこと。死んだ預言者たちをほめたたえているが、その一方で実に彼らを殺すことに同意し、それに手を貸している。
 預言者たちが語った言葉に耳を傾けて、その言葉の中に示されている神さまの愛、神さまの正義を読み解いて、生きることがなければ、ただ、昔の預言者が語った言葉のままで、過ぎさってしまい、預言の言葉は生きた言葉として響いていきません。
 私たちが、聖書を読むとき、その言葉に示されている神さまの愛に聴くことなしに、信仰の道を歩むことはできず、私たちを生かす言葉になってこないのです。

 三つ目。彼らの生活とその教えとの間には大きな矛盾があって、そのことによって人々を混乱させているということ。

 日曜日には教会の礼拝に出席するけれど、それ以外の日は、この世の基準に従って、あたかも神さまを忘れたかのような生活をしてしまう。私たちは、決してそのような生活に埋もれてしまってはいけないのです。
 週の初めの日曜日に神さまから与えらるみ言葉によって、その一週間を生き生きと生きる。そのように、礼拝で語られるみ言葉が生活の中で輝かなければなりません。
 とはいっても、普段の生活のいそがしさや、苦しさに追い回されると、そうは言ってられないと思うかもしれません。
 確かに、二十四時間、神さまのことを思い続けなさいと言っても、絵に描いた餅で、人間である以上、だれもそれをすることはできないでしょうし、そうしなさいと言うことは、律法の専門家と同じことになってしまいます。
 では、どうすれば良いのか?

 一つの例を上げるなら、礼拝で聞いた聖書のみ言葉の一節。あるいは、ご自身がその週に読んだ聖書の言葉の中で、心に響いた一つのみ言葉。そのみ言葉を、その週の間、繰り返し、ご自分の心の中で繰り返し口ずさみ、神さまから与えられた言葉として大切に過ごしてみるのはいかがでしょうか?
 聖書に書かれている言葉、イエスさまが語られた言葉。どれも聖霊によって導かれて、文字に書き留められた言葉です。その言葉の一つを自分の生活の中で、その週の糧として、繰り返し口ずさみ、その言葉に示された神さまの愛の中に生きるなら、その人の生活は、主イエスを証しする生活となるはずです。

 ミカ書6章8節に記された主のみ言葉。
 「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

 このみ言葉を、今週のみ言葉として、歩んで行きたいと願います。

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