「神さまが見せる幻」

 この世の中で、自分が住んでいる国と仲の悪い国が、武力を高めるためにたくさんの武器を準備しているとき、対抗しなければならない自国はどうするでしょうか。おそらく自国の武器をたくさん買って、相手が簡単に攻め込んでこないようにと考えるのではないでしょうか。

 旧約聖書には、イスラエルと周辺の国々が何度も戦ったことが書かれています。多くは、勝った、負けたということですが、列王記下6章には、預言者エリシャがイスラエルの敵アラムを、神さまが準備された軍で追い払ったことが書かれています。
 ドタンという町にエリシャと彼の従者がいた時、イスラエル軍に神さまからの指令を伝え、イスラエル軍を有利に導いていたエリシャを捉えようと、敵アラム軍がやって来て、町を包囲しました。
 すると、エリシャは神さまに祈り、従者の目を開くようにお願いしました。神さまがその願いを聞いて、従者の目を開いたところ、通常では見えるはずのない神の軍隊が、エリシャたちを囲って守っていることが見えたのです。
 エリシャと従者の周りを、火の馬と戦車が囲んでいるのが見えました。そして、その数は敵の数よりも多かったのです。
 さて、神さまが準備された軍はその後どうしたでしょうか?敵のアラムを倒しに出陣したでしょうか?
 いいえ、そうではありませんでした。神さまは、エリシャを用いて、敵の軍を欺き、別の町へと移動させ、イスラエルと直接戦わないようにされたのです。
 その様子を見たイスラエルの王はエリシャにたずねました。
 「わたしの父よ、わたしが打ち殺しましょうか、打ち殺しましょうか」
 イスラエルの王の目に映っていたのは、敵であるアラムが神さまの計画によって追われた時、今こそ、敵を倒す機会だということでした。
 ところが、イスラエルの王から問いかけを受けたエリシャは、思いも掛けないことを話したのです。
 「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
 神さまは、イスラエルの王に戦いを命じるのではなく、敵をもてなすための宴会を開かせ、敵が食事に満足して、国へ戻り、二度とイスラエルを攻めようとはしなかったのです。

 この話を聞いて、これは単に聖書の中だけの話しと思うでしょうか?
いいえ、今この世において、国と国が、人と人が考え方の違いから、敵対して対立し、武力で争おうと考えた時、武力を使わない解決方法があるのだということを、私たちは思い描かないといけないでしょう。
 私たち、神さまを信じる者がなすべきことは、神さまに祈り、神さまから示される解決方法。武力によらず、問題を解決する方法を願い求め、与えられた方法で和解し、神さまのみ心にかなう道に進むことが私たちに求められているのだと思います。

 多くの国が、自分たちの国のことだけを、いえ、自分のことだけを考えようとしている時こそ、神さまに解決策を求め、互いに愛し合うべき存在であることを覚えて、国と国が、人と人が共に暮らすことができる世の中を求めて行くべきではないでしょうか。
 その答えが、聖書の中にあると思います。そしてなにより、敵をも愛し、敵から十字架につけられた時でも、敵を許された主イエスの愛に私たちは、ならいたいと思います。

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