「未分類」カテゴリーアーカイブ

小さなコラム「正直に歩む」

 私たちの教会では、使徒言行録を、連続講解説教として、読んでいます。この中で、福音を力強く語り続ける使徒たちに対し、激しく抵抗し、迫害するユダヤ人たちの様子が書かれています。キリスト者に対する迫害は、民衆の中に、広がって行った、この世の権力ではない権力に恐れを抱いた、ローマ帝国から始まったのではありませんでした。
 では、なぜ、ユダヤ人たちの中から、キリスト者に対する迫害が始まっていったのでしょうか。それは、イエスさまを主として信じた人々の多くが、ユダヤ教を信じていた人たちであったことと関係しています。もともと、ユダヤ教の信仰を持ち、モーセを通して与えられた律法を守るように生活をしていた人たちが、十字架に架けられたイエスさまによって救いを得たと信じている事が、ユダヤ人たちにとってがまんできないことでした。
 エルサレムに住んでいた多くのユダヤ人たちは、イエスさまが宗教指導者たちのねたみから十字架刑に処せられた時、指導者たちに同調してイエスさまの死刑に賛成しました。それは、指導者たちの煽動だけでなく、神さまを冒瀆したという理由が本当だと思ったからです。そして、律法に書かれているように、杭に付けられて死んだ人は、神さまから呪われていると律法にあることから、十字架に架けられたイエスさまは、神さまから呪われた人だと思いました。
 そのため、多くのユダヤ人は、神さまを冒瀆し、神さまから呪われて死んだ人を自分たちの主である。旧約で預言されているメシアだとはとても思うことができませんでした。また、ユダヤ教に熱心な人々は、自分たちは、律法と言い伝えによるさまざまな規則を守ろうとして苦労しているのに、イエスさまを信じた人々は、そのことから、解放されて、のびのびと生活しているという様子も、我慢ならなかったのでしょう。
 そのため、キリスト者に対する迫害は、まずユダヤ人たちの中から起こり、やがて、治安を乱す人々として、ローマ帝国が迫害をするようになっていきました。

 さて、2000年の昔、迫害を受けたキリスト者たちは、すぐにでもイエスさまがこの世に来られて、この世を裁かれ、神の国が実現すると考えていました。そこで、日々敬虔な生き方をするように心がけていたのですが、2000年の間、イエスさまが地上に来られなかった時を経て、今の私たちの生活はどのようになっているでしょうか。神さまがこの世の最後に裁きを行われる時は、父なる神さましかご存じないと、イエスさまが言われたように、明日なのか、それともずっと先のことなのか、私たちにはわかりません。それでも、突然イエスさまが来られて、私たちに前に姿を現されたら、素直な心で、イエスさまをお迎えすることができるでしょうか?
 主の祈りで、「御心の天になるごとく、地にもならせたまえ」と繰り返し祈っているにもかかわらず、その時になって、しまったと、あわてることはないでしょうか。
 今日の説教で取り上げたアナニアとサフィラの出来事は、そんな私たちに、キリスト者は、どのように生きるべきかを教えています。良いことをしようと、自分の力で頑張って生きること以上に、神さまに対して、正直に生きることが大切だということを、この出来事は教えています。箴言16章3節に、
 「正しいことを語る唇を王は喜び迎え 正直に語る人を愛する。」
とあります。この「王」は、神さまによって立てられ、神さまを信じる正しい王として書かれていますが、同時に、私たちの王であるイエスさまを指していると言えるでしょう。イエスさまは、正しいことを語る人を喜び迎え、正直に語る人を愛してくださいます。神さまの前に、正直に歩むものでありたいと願います。

今週のみ言葉「正直に生きる」

 「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。」                   箴言 30章5節

 「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
                    使徒言行録 5章4節

 旧約では、神さまによって招かれ、神さまのために用いられた人でも、神さまから心を離してしまい、罪を犯してしまう人が沢山登場します。
 そこで、神さまは、人間の力で罪から助かるのではなく、神さまの方から私たちに近づいてくださり、神さまが私たちを救うために、独り子イエスさまを遣わしてくださいました。それで、私たちは、イエスさまを信じることで、罪の奴隷から解放されて救われるようになりました。

 新約で、救われた人々は、すべてイエスさまを信じることで救いの恵みに与ったのですが、中には、せっかく救いの恵みをいただいても、そこから漏れてしまう人がいたのです。
 その例が、使徒言行録5章に書かれている、アナニアとサフィラという一組の夫婦による出来事でした。彼らは、自分の土地を売った代金をごまかして、実際よりも少ない金額で土地を売ったように見せかけ、土地の代金すべてを教会のために持ってきましたと、うそをつきました。
 使徒ペトロはそのことを、聖霊から知らされ、アナニアに注意したところ、アナニアの命はたちまち、神さまによって召し上げられてしまいました。この話しは、救いの恵みに与った者でも、決して神さまを試みてはいけない。神さまの恵みの中で、感謝して正直に生きることを私たちに教えています。

今週のみ言葉「くじが持つ意味」

「アロンは二(ひき)()山羊(やぎ)についてくじを()き、一(ぴき)(しゅ)のもの、()の一(ぴき)をアザゼルのものと()める。」   レビ記 16章8節

 「二人(ふたり)のことでくじを()くと、マティアに()たったので、この(ひと)が十一(にん)使徒(しと)仲間(なかま)(くわ)えられることになった。」
                   使徒言行録 1章26節

 わたしたちが、「くじ」と聞くと、当たる可能性があるかどうか、不確かな物のように思えるのではないでしょうか?確かに、私たちが生活の中で出会う「くじ」は、商店のくじ引きの「くじ」や、宝くじのような、当たる可能性が低い「くじ」のことを思い浮かべるでしょう。これらの「くじ」は、偶然の確率によって、当たりを引き当てることができます。

 それに対し、書に書かれている「くじ」は、くじを引いた結果に、神さまの意志が働く「くじ」です。神さまに献げる最上の物が2つあって、どちらか選ぶことができない時に引く「くじ」。また、熱心に主に従う弟子の内、どちらを使徒として立てるかを決める時に引く「くじ」。人間の意志では決めかねることを、正しい判断に委ねる時に、聖書では神さまの思いが示されるように、「くじ」を引きました。

 わたしたちが、信仰生活を続ける中で、判断に迷ったり、先に進めばよいのか、まだ立ち止まった方がよいかを迷う時、自分の思いだけで先に進むことはないでしょうか。そんな時、聖書は、神さまの思いを伺うために、まず祈り求めなさいと教えています。神さまはすべてをご存知ですが、この世で迷いを持つ私たちが祈りを献げる時、必ず最も良い答えを与えてくださいます。願ったとおりの答えそのものでなくても、後から振り返ってみた時、あの時、祈って判断できたことが良い結果につながったと思えることがあるでしょう。  わたしたちは、最善を尽くした上で、神さまのみ心に聞く「くじ」を引きたいと思います。

2020-04-12 今週のみ言葉

 「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」     イザヤ書 55章11節
 「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。」
              ルカによる福音書 22章26節
 
 墓の中から復活されたイエスさま。マグダラのマリアは、復活されたイエスさまが自分の後ろに立っておられても、その方が、イエスさまだとは、気が付きませんでした。マリアが、イエスさまが復活されたことを確信し、信じたのは、イエスさまから「マリア」と声を掛けられた瞬間でした。

 わたしたちは、自分以外の人が声を出す時、自分の名前を呼ばれなければ、気が付かないことがあります。アメリカの住宅地で夜間、殺人事件が起きた時、「助けて!」と声を出した女性の叫びを、自分が呼ばれていないと思って、警察に通報しなかった結果、その女性が死亡するという事件がありました。この時、襲われた女性が、その近くにいる誰かの名前を呼んでいたら、警察への通報がなされ、一命を取り留めたのではないかと言う、評論家がいます。
 相手の名前を呼ぶことは、その人の心に向けて呼びかけることでもあります。イエスさまは、復活された時、マグダラのマリアの心に向けて、「マリア」と呼ばれました。その言葉は、神さまからの呼びかけであり、復活された方の言葉でしたので、マリアは、その瞬間、すべてを理解し、イエスさまが復活されたことを言葉と目で見ることで確信しました。

 復活の出来事は、わたしたちが神さまと出会うことです。礼拝に招かれた時、神さまからの呼びかけがあり、わたしたちの心が、その呼びかけに応えるということが、大切なことなのです。

「教会の幻」

 私たちは、今、この日本で暮らす信仰者として。長い間、日本の伝道がふるわない。なかなか信徒が増えていかない。そればかりか、最近では、世の中で言われている、少子高齢化を反映して、教会の教勢が落ちていると嘆いています。しかし、そう嘆くことが、本当に私たちが抱えている問題を的確に捉えて、対応することに結び付いているのか? という疑問を私は、持っています。

 現在、日本のクリスチャン人口は、カトリックとプロテスタントを合わせても、1%に満たないと言われています。
 それに対し、戦前、戦中、キリスト教よりも弾圧を受けた、創価学会。創価学会は、戦後、家族毎に伝道活動をするということで、現在3%の信者がいると言われています。創価学会の伝道の方法は、以前は説伏と呼ばれる強引な方法もありましたが、家族単位に布教をしたことで、信者を増やしました。
 家族単位で信者が増えたことで、信仰の継承。親から子へ、子から孫へという信仰の継承が、キリスト教よりも容易であると言われています。家族単位で同じ信仰を持つと、冠婚葬祭。とりわけ、結婚式や葬儀という場面で、同じ信仰を持っているという安心感があります。
 創価学会はもちろん、キリスト教ではありませんが、彼らが取り組んだ伝道の中に、多くの人を教会に招くための、何らかのヒントがあるのではないでしょうか?

 聖書の中で、パウロたちが行った伝道を考えてみると、聖書が書かれている時代、今あるような「礼拝堂」、という建物はありませんでした。
 ユダヤ人が各地に建てた、「会堂」を使って伝道することはありましたが、多くは家の教会と呼ばれる、個人の家での礼拝が行われました。また、ローマ帝国の迫害が厳しい時代、地下墓地と訳される「カタコンベ」という場所で、礼拝が行われたことが知られています。
 礼拝の場所が、そういう場所であったことを考えると、家族の中の誰か一人が、イエスさまの教えに興味を持って出かけて行く、ということは少なかったのではないでしょうか。一人ではなく、家族全員で、イエスさまの話しを聞き、家族全員が信徒になるということが起きたでしょう。
 実際、使徒言行録16章で、牢に捕らわれていたパウロとシラスが大地震が起きて、牢から脱出する機会を得た時、驚いて自殺を図った看守を助けたことから、家族全員が信徒になったという記事があります。
 私たちも、日本の伝道を考える時、機会を捉えて、家族全体に福音を伝えることを考えていくべきではないでしょうか。

 日本における伝道不振の解決策。それは、教会に集う一人一人が御言葉の力によって、聖霊の助けによって、信仰を深められ、豊かにされること。そこから始まり、家族ぐるみへの伝道、福音を語ること、自らの生き方そのものによって、主イエスを証しすること。
 そのことを通して、それぞれの教会の伝道。そして、日本の伝道の新たな道筋が開けていくのではないでしょうか。

 教会に来る人が少ない、と嘆く人が多くいますが、これから教会に招くことができる人の数は、本当に少ないのでしょうか?
 先日行われた、参議院選挙の投票率が、50%以下であったという報道がありました。この報道を聞いたとき、私は、物事に対する関心がない人が、日本人の半数近くもいると思いました。
 であるなら、そこにはまだまだ、福音を語る余地、伝道をする余地が残されていると思います。なぜなら、政治にすら、無関心である人の心の中には、神さまを受け入れるだけの余地が、まだ残されていると思うからです。

 教会の中で、伝道不振を嘆くのではなく、まだまだ福音が届いていないところが多くあり、御言葉の力によって、多くの人が救われる希望があることを覚えて、歩んで行きたいと思います。

「七転び八起き」

 最近、東田直樹という著者が書いた、「七転び八起き」という本を読みました。この著者は、他の作家と一つ違う点があります。それは、彼が重度の自閉症であるということです。
 自閉症の障がいを持っている人は、通常他人とのコミュニケーションが困難です。自分の思い、考えを人に伝えることがとても困難です。ところが、彼の場合、母親が根気強く彼を助け、筆談を教え、文字盤を押さえることで、自分の思いを表現することができるようになりました。
 それで、彼は自分の思いを文字の形で他の人に伝えることができるようになりました。

 彼が書いている文書の中で、自閉症のために、自分でしたいと思わない行動をしてしまう、また、同じ行動を繰り返してしまうことで、周囲の人が、その行動が好きだと誤解してしまうと書いています。彼がそういう行動を取った時、周囲の人が非難するのではなく、危険な行動でないかぎり、そのままにしてもらいたい。しかし、危険な行動はすぐに止めてもらいたいと書いてありました。

 この文書を読んだ時、使徒パウロが、私たちは罪の奴隷です。自分がしたいと思うことができず、したくないと思うことをしてしまうのです、と言っている言葉が重なってきました。
 罪の奴隷である人間の行動が、悪へ走る時は止めなければなりません。しかし、悪に結び付く以外の行動は、その人が置かれている環境や、その人の行動を、無理やり変えるのではなく、人格を尊重して、共に寄り添っていく。という姿勢が、信仰を守り育てていく上で大切なのではないでしょうか。
 彼の本を読んで、そのように感じさせられました。

「悔い改めと救い」

「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」               ルカによる福音書 13編3節
「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。… わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」    エゼキエル書 18章31、32節
 
 罪の悔い改めと救い。これは、どちらも神さまの審きに関係している言葉です。2000年前に私たちのところに来てくださったイエスさまが、救い主と呼ばれていることは、クリスチャンでない人にもよく知られています。
 ところが、「救い」という言葉の意味を本当に知っている人となるとどれだけいるでしょうか? 「救い出す」ということは、窮地に陥っている時、危険な状態にある時にその場面から安全な場所へ移すということです。
 聖書で語られている救いは、罪から救い出すことです。聖書が語る罪とは、人間が定めた法律や掟を破ることだけではありません。唯一まことの神さまを信じようとしないこと、神さまのみ心に従って歩むことをしないことなども罪だと言われています。
 人がその罪を悔い改めないままでいると、この世の終わりにイエスさまが再臨し、この世の悪を裁かれる時、罪を悔い改めなかった者は、罪の結果による第二の死を迎え、永遠に苦しまなければならないと、ヨハネの黙示録20章で預言されています。

 イエスさまは、被造物である私たちがそのような苦しみを受けることを喜ばれません。ですので、この世に来られた時、罪の悔い改めをするようにと、繰り返し私たちに教えられたのです。

「目を覚ましていなさい」

「無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。」                 箴言 12章15節
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」                 ルカによる福音書 12章35節
 
 「目を覚ましていなさい」という説教題。これはなにも、夜通しまぶたを開けている、ということではありません。ある日突然、思いがけないことが起きたとしても、すぐに行動できるように、準備をしておきなさいということです。それが「目を覚ましている」こととして、聖書で語られています。
 では、何に対して準備をしておくのでしょうか。それは、十字架の後、復活され天に昇られたイエスさまが、再びこの世に来られる時の準備をしておくということです。イエスさまが再びこの世に来られた時、この世で生きて、死を迎えた人がすべてよみがえって、神さまの裁きを受けます。
 イエスさまがいつ来られるのか、あるいは、私たちのこの世での生命が、いつ終わりを迎えるのかは、だれも知らされていません。しかし、その時、私たちがこの世でイエスさまから命じられていたこと。福音を宣べ伝えて、多くの人を救いへと導くことができたかどうかが問われます。それは、私たちのこの世での人生が、どうだったのかを問われるのです。
 その時、イエスさまが、私たちに聞かれることは、何人の人を受洗へと導いたか、というように業績を聞かれるのではなく、一人ひとりの人生が、イエスさまの十字架と復活による救いを証しすることができたのか。イエスさまの救いを自分の生き方を通して証し(証明)することができたか、ということです。

 イエスさまが再び来られた時、イエスさまに喜んでいただける生涯を送るための信仰を、与えていただけるようにと願います。

十字架上の七つの言葉 Ⅶ

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」           ルカによる福音書 23章46節

 最後の言葉。私たちがこの世での生を終わる時、どのような思いであったとしても、死のその先に自分を委ねる方がおられる。ということほど、平安を与えられることはないでしょうか。
 主イエスの人生は、すべてを父なる神さまに委ね、神さまの御心のままに歩まれた人生でした。神さまであり、人である方だから、そうできるのでしょうと、言われる方がいるかもしれません。けれど、人であるということは、恐れの、悩みの、苦しみの感情を持っておられた方ということです。

 私たちと同じように感じる感情がある方が、十字架刑を宣告する裁判であれほど落ち着いておられ、また、十字架の上で、敵を愛する言葉をかけることができたのは、すべてを父なる神さまにお委ねしていたからではないでしょうか。
 旧約の詩編の中に、詩人が夜眠る時、神さまに霊を委ねます、という詩があります(詩編  31編)。目を覚ましていても、私たちは死に抵抗することはできませんが、眠っている時はなおさらでしょう。夜眠り、再び朝起きることができることは、絶対確実なことではないのです。それで、ユダヤ人は夜眠る時、自分の霊を神さまに委ねますという祈りをして眠ったのです。

 主イエスの十字架も復活も全て父なる神さまに委ねられた結果、起きたできごとでした。そして、委ねられた結果として、主イエスは栄光を受け、天に昇られたのです。神さまにご自身を委ねたことで、死に勝利されたのです。

 わたしたちも、主イエスに倣い、自分自身を神さまに委ねる者となることができるように、祈っていきたいと願います。

十字架上の七つの言葉 Ⅵ

 「成し遂げられた」   ヨハネによる福音書 19章30節

 六つ目の言葉。この言葉は、口語訳聖書では、「すべてが終わった」と訳されていました。私たちが、この世での生を終わる時、どのような思いでこの世から去っていくのでしょうか。
 まだまだ、この世に未練がある。もっと生きたい等。もちろん、すべての人が、この世に未練を残して行くのではないでしょうが、自分の人生を全うして、この世を去ることができると言える人が、どれほどいるでしょうか。

 イエスさまのこの言葉は、神さまのご計画を、ご自身が人々に伝え、そして、十字架でご自身を罪の贖いとして献げることができたという事実に基づいています。神さまが計画なされた、私たち人間を救うための具体的な行いが、十字架によって完成された。ということを言われたのです。

 神さまによる救いの計画は、十字架と復活の出来事によって、死に勝利するという形で完成されました。しかし、完成されたと言っても、私たちが何もしないで、その救いに与るということではありません。イエスさまの十字架と復活の出来事の時から、神さまと私たち人間の新しい契約が始まりました。

 この世の終わりに、イエスさまが再びこの世に来られて、この世を裁かれる時まで、私たちは、いつでも、神さまの憐れみにより、罪を赦され、救いへと導かれる時が準備されている。私たちのところに、神さまのご支配、神の国が到来しているということなのです。