2024年3月28日までの礼拝説教を聞くことができますので、どうぞご利用ください。
「未分類」カテゴリーアーカイブ
礼拝説教録音フォルダーを一部アップデートしました
2023年12月と2024年1月の説教録音をアップしました。
礼拝説教のページをアップデートしました
しばらく更新していなかった礼拝説教をアップデートしました。まずは2023年5月の説教を当該ページに載せています。
また、最新の説教は、トップページから直接聞くことができるようにしました。
よろしくお願いします。
小さなコラム「数えてみよう主の恵み」
今週のみ言葉「神さまは分け隔てされない」
「彼は庭を造り、庭の南側に亜麻のより糸で織った長さ百アンマの幔幕を張った。」 出エジプト記 38章9節
「彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。」 使徒言行録 21章29節
エルサレムの神殿と、神殿ができる前に作られた会見の幕屋。どちらも神さまを礼拝し、罪の悔い改めの犠牲を献げる場所として作られました。会見の幕屋も神殿もそこに神さまがおられる(臨在される)という信仰から、祭司が入れる場所、ユダヤ人が入れる場所、婦人が入れる場所、異邦人が入れる場所というように、立ち入れる場所が決まっていました。
これは、人々を差別しようというのではなく、神さまは聖なる方なので、近づきすぎて神さまの怒りに触れて、死ぬことがないようにという配慮からでした。立ち入ることができる場所が違っていても、神さまを信じる人は、それぞれの場所で祈りを献げることができました。
教会で礼拝を献げる時、その場所に制限がないのは、イエスさまがすべての垣根を取り壊し、すべての人が救いに与ることができるようにしてくださったからです。
パウロが誓願の期間を終えたナジル人とエルサレム神殿に入った時、入っては行けない場所に異邦人と立ち入ったというえん罪で捉えられました。パウロにとって、このえん罪は言われなきものでしたが、そのことで、主を証しする機会を新たに与えられることになったのです。
神さまは、思いもかけないことから私たちを用いられることがあることを憶えたいと思います。
小さなコラム「平和について」
小さなコラム「正直に歩む」
私たちの教会では、使徒言行録を、連続講解説教として、読んでいます。この中で、福音を力強く語り続ける使徒たちに対し、激しく抵抗し、迫害するユダヤ人たちの様子が書かれています。キリスト者に対する迫害は、民衆の中に、広がって行った、この世の権力ではない権力に恐れを抱いた、ローマ帝国から始まったのではありませんでした。
では、なぜ、ユダヤ人たちの中から、キリスト者に対する迫害が始まっていったのでしょうか。それは、イエスさまを主として信じた人々の多くが、ユダヤ教を信じていた人たちであったことと関係しています。もともと、ユダヤ教の信仰を持ち、モーセを通して与えられた律法を守るように生活をしていた人たちが、十字架に架けられたイエスさまによって救いを得たと信じている事が、ユダヤ人たちにとってがまんできないことでした。
エルサレムに住んでいた多くのユダヤ人たちは、イエスさまが宗教指導者たちのねたみから十字架刑に処せられた時、指導者たちに同調してイエスさまの死刑に賛成しました。それは、指導者たちの煽動だけでなく、神さまを冒瀆したという理由が本当だと思ったからです。そして、律法に書かれているように、杭に付けられて死んだ人は、神さまから呪われていると律法にあることから、十字架に架けられたイエスさまは、神さまから呪われた人だと思いました。
そのため、多くのユダヤ人は、神さまを冒瀆し、神さまから呪われて死んだ人を自分たちの主である。旧約で預言されているメシアだとはとても思うことができませんでした。また、ユダヤ教に熱心な人々は、自分たちは、律法と言い伝えによるさまざまな規則を守ろうとして苦労しているのに、イエスさまを信じた人々は、そのことから、解放されて、のびのびと生活しているという様子も、我慢ならなかったのでしょう。
そのため、キリスト者に対する迫害は、まずユダヤ人たちの中から起こり、やがて、治安を乱す人々として、ローマ帝国が迫害をするようになっていきました。
さて、2000年の昔、迫害を受けたキリスト者たちは、すぐにでもイエスさまがこの世に来られて、この世を裁かれ、神の国が実現すると考えていました。そこで、日々敬虔な生き方をするように心がけていたのですが、2000年の間、イエスさまが地上に来られなかった時を経て、今の私たちの生活はどのようになっているでしょうか。神さまがこの世の最後に裁きを行われる時は、父なる神さましかご存じないと、イエスさまが言われたように、明日なのか、それともずっと先のことなのか、私たちにはわかりません。それでも、突然イエスさまが来られて、私たちに前に姿を現されたら、素直な心で、イエスさまをお迎えすることができるでしょうか?
主の祈りで、「御心の天になるごとく、地にもならせたまえ」と繰り返し祈っているにもかかわらず、その時になって、しまったと、あわてることはないでしょうか。
今日の説教で取り上げたアナニアとサフィラの出来事は、そんな私たちに、キリスト者は、どのように生きるべきかを教えています。良いことをしようと、自分の力で頑張って生きること以上に、神さまに対して、正直に生きることが大切だということを、この出来事は教えています。箴言16章3節に、
「正しいことを語る唇を王は喜び迎え 正直に語る人を愛する。」
とあります。この「王」は、神さまによって立てられ、神さまを信じる正しい王として書かれていますが、同時に、私たちの王であるイエスさまを指していると言えるでしょう。イエスさまは、正しいことを語る人を喜び迎え、正直に語る人を愛してくださいます。神さまの前に、正直に歩むものでありたいと願います。
今週のみ言葉「正直に生きる」
「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。」 箴言 30章5節
「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
使徒言行録 5章4節
旧約では、神さまによって招かれ、神さまのために用いられた人でも、神さまから心を離してしまい、罪を犯してしまう人が沢山登場します。
そこで、神さまは、人間の力で罪から助かるのではなく、神さまの方から私たちに近づいてくださり、神さまが私たちを救うために、独り子イエスさまを遣わしてくださいました。それで、私たちは、イエスさまを信じることで、罪の奴隷から解放されて救われるようになりました。
新約で、救われた人々は、すべてイエスさまを信じることで救いの恵みに与ったのですが、中には、せっかく救いの恵みをいただいても、そこから漏れてしまう人がいたのです。
その例が、使徒言行録5章に書かれている、アナニアとサフィラという一組の夫婦による出来事でした。彼らは、自分の土地を売った代金をごまかして、実際よりも少ない金額で土地を売ったように見せかけ、土地の代金すべてを教会のために持ってきましたと、うそをつきました。
使徒ペトロはそのことを、聖霊から知らされ、アナニアに注意したところ、アナニアの命はたちまち、神さまによって召し上げられてしまいました。この話しは、救いの恵みに与った者でも、決して神さまを試みてはいけない。神さまの恵みの中で、感謝して正直に生きることを私たちに教えています。
今週のみ言葉「くじが持つ意味」
「アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。」 レビ記 16章8節
「二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。」
使徒言行録 1章26節
わたしたちが、「くじ」と聞くと、当たる可能性があるかどうか、不確かな物のように思えるのではないでしょうか?確かに、私たちが生活の中で出会う「くじ」は、商店のくじ引きの「くじ」や、宝くじのような、当たる可能性が低い「くじ」のことを思い浮かべるでしょう。これらの「くじ」は、偶然の確率によって、当たりを引き当てることができます。
それに対し、書に書かれている「くじ」は、くじを引いた結果に、神さまの意志が働く「くじ」です。神さまに献げる最上の物が2つあって、どちらか選ぶことができない時に引く「くじ」。また、熱心に主に従う弟子の内、どちらを使徒として立てるかを決める時に引く「くじ」。人間の意志では決めかねることを、正しい判断に委ねる時に、聖書では神さまの思いが示されるように、「くじ」を引きました。
わたしたちが、信仰生活を続ける中で、判断に迷ったり、先に進めばよいのか、まだ立ち止まった方がよいかを迷う時、自分の思いだけで先に進むことはないでしょうか。そんな時、聖書は、神さまの思いを伺うために、まず祈り求めなさいと教えています。神さまはすべてをご存知ですが、この世で迷いを持つ私たちが祈りを献げる時、必ず最も良い答えを与えてくださいます。願ったとおりの答えそのものでなくても、後から振り返ってみた時、あの時、祈って判断できたことが良い結果につながったと思えることがあるでしょう。 わたしたちは、最善を尽くした上で、神さまのみ心に聞く「くじ」を引きたいと思います。
2020-04-12 今週のみ言葉
「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」 イザヤ書 55章11節
「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。」
ルカによる福音書 22章26節
墓の中から復活されたイエスさま。マグダラのマリアは、復活されたイエスさまが自分の後ろに立っておられても、その方が、イエスさまだとは、気が付きませんでした。マリアが、イエスさまが復活されたことを確信し、信じたのは、イエスさまから「マリア」と声を掛けられた瞬間でした。
わたしたちは、自分以外の人が声を出す時、自分の名前を呼ばれなければ、気が付かないことがあります。アメリカの住宅地で夜間、殺人事件が起きた時、「助けて!」と声を出した女性の叫びを、自分が呼ばれていないと思って、警察に通報しなかった結果、その女性が死亡するという事件がありました。この時、襲われた女性が、その近くにいる誰かの名前を呼んでいたら、警察への通報がなされ、一命を取り留めたのではないかと言う、評論家がいます。
相手の名前を呼ぶことは、その人の心に向けて呼びかけることでもあります。イエスさまは、復活された時、マグダラのマリアの心に向けて、「マリア」と呼ばれました。その言葉は、神さまからの呼びかけであり、復活された方の言葉でしたので、マリアは、その瞬間、すべてを理解し、イエスさまが復活されたことを言葉と目で見ることで確信しました。
復活の出来事は、わたしたちが神さまと出会うことです。礼拝に招かれた時、神さまからの呼びかけがあり、わたしたちの心が、その呼びかけに応えるということが、大切なことなのです。