「救いが告げられた」2019/12/16

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた」 イザヤ書 52編7節

「わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
         ヨハネによる福音書 7章29節

 イザヤ書52章に書かれている「良い知らせ」は、口語訳聖書では「よきおとずれ」となっていました。この言葉は、ヘブル語の「おとずれる」という動詞を訳したものですが、その単語には、「喜び」という意味も含まれていました。この言葉は、新約聖書のギリシア語で「エウアンゲリオン」[福音]という言葉になります。
 ギリシア語の「エウアンゲリオン」は、「良い知らせ」というだけでなく、「戦勝の知らせ」の時に使われましたので、聖書において、神さまがこの世に来てくださり、私たちの王となられた。私たちの罪そして、悪に勝利されたことが告げられたという意味へと変わっていったのです。

 古代において、戦勝のしらせは、使者が勝利した街に走って行って、高いところから人々に告げ知らせました。その使者は、戦いに勝利した将軍から遣わされましたが、イエスさまは、父なる神さまから遣わされ、この世の罪と悪に勝利されたことを告げるために、私たちのところへと遣わされたのです。クリスマスは、その勝利宣言の始まりでした。その後、十字架での受難を経て、死から復活された主イエスこそ、私たちにとって、平和の使者、福音を告げる方、私たちの王となられたのです。

「父から遣わされた方」

「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」         列王記上 22編14節

「わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」
       ヨハネによる福音書 5章36節

 イエスさまが、私たちに福音を教えてくださった時、「言葉」と「業」とによって示されたと、聖書にあります。「言葉」とは、イエスさまが話された言葉そのものを言っているのと、旧約聖書に書かれている救い主、メシアに関する預言を使って、福音を告げられました。また、「業」とは、イエスさまが病人を癒やし、悪霊を追い出し、嵐を静める等、「奇跡」と呼ばれている出来事を指しています。
 イエスさまは、神さまでありまた、人でもありましたので、イエスさまが語られた言葉そのものが、神さまの言葉。あるいは、父なる神さまから託された言葉でした。また、「業」も神さまによって行われた出来事でした。
 イエスさまが復活されて天に昇られたあと、私たちはイエスさまを直接見ることはできません。しかし、毎週日曜日礼拝で語られる説教は、神さまから預けられた言葉を牧師が語り、礼拝の中に共にいてくださる聖霊なる神さまが、私たちの信仰をより深く、豊かなものへとしてくださるのです。
 旧約聖書に登場する預言者たちは、聞いた時、よいと思うことも、悪いと思うこともすべて神さまから託された言葉を語りました。そのことが、神さまによって選びだされ、神さまに仕える者としてなすべきことであったからです。わたしたちも、礼拝で語られるみ言葉は、神さまから託され、与えられ、私たちに希望と力を与えるものであると信じて、礼拝を大切に守りたいと思います。

「後から来られる方」

「わたしは来て あなたのただ中に住まう」                ゼカリヤ書 2編14節

「その人はわたしの後から来られる方」
          ヨハネによる福音書 5章36節

 お迎えに行かなければ来ない人と、待っていても来てくれる人のどちらを、あなたは好きになるでしょうか?
 突然こんなことを聞かれたら、どういうことだろうか? と思ってしまうのではないでしょうか。
 じつは、これは、この世の中で神さまとよばれている方のことについて聞いています。日本の神社に祭られている神さまは、年に一度は、お神輿に担がれて、待っている人のところへつれていかれます。また、お寺で祭っている仏は、お寺に行くか、うつし身といって、同じ仏の像として作った仏像を持ち帰ることで、必要としている人のところに来ます。

 ところが、一切像を作ってはならないと言われた、私たちの神さまは、神さまを信じる人のところへ来てくださる方なのです。イエスさまがこの世に生まれる前は、エルサレムにあった神殿に神さまがおられると信じられていましたが、イエスさまがお生まれになったことで、神さまが人となって私たちのところへと来てくださいました。
 わたしたちはだれでも、行動できる範囲を限られたり、してもよい行動が制限されたら、不満を持ったり、不安になったりします。ところが、わたしたちの神さまは、私たちを救うために、人となられました。神さまとしての権限、力の行使を後回しにしてでも、私たちのところへと来てくださったということ。
 そのことに、神さまの愛が示されています。