今週のみ言葉「私たちを照らすもの」

「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり あなたの神の御手の中で王冠となる。」         イザヤ書 62章3節

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」
              ルカによる福音書 24章32節

 「心が燃える」時とは、どんな時でしょうか? 人は、恋をすると胸が苦しくなることがあります。それは、相手を思う心、愛する心が芽生えるからではないでしょうか。
 神さまは、モーセに十戒を与えるとき、御自身は「熱情の神」であると言われました。私たち人間を愛する熱い思いを持っておられるということです。
 そして、神さまの栄光は、光にたとえられています。光は明るく、また、熱いものです。神さまの栄光を現す光は、暗闇を照らし、暗いものを押し出し、悪を退けます。主の正しさが、この世に大きな力として示されます。

 主イエスの復活の出来事は、まさしく、主なる神さまの正義が、栄光がこの世に光として指し示された出来事でした。この光は、14世紀にヨーロッパでペストが大流行したときも、今、新型コロナウイルスが広がっているときも、決してその明かりが消えることはありません。
 暗闇の中を歩くとき、光が導き手となるように、わたしたちは、神さまから与えられている、光によって。主イエス・キリストの復活の光に照らされたて、このとても不安な状況の中にあっても、日々一歩ずつ、主のみ言葉を生命の糧として、歩みつづけたいと思います。

今週のみ言葉「主の声が響く」

「わたしは勝利を告げ 大いなる救いをもたらすもの。」 
                   イザヤ書 63章1節 
「子たちよ、何か食べる物があるか」
              ヨハネによる福音書 21章5節
  
 舟の上で漁をしていたペトロたち。陸におられたイエスさまから声を掛けられました。初めは声を掛けた人がイエスさまだとは気が付かず、声を掛けられたように自分たちの仕事の続きとして網を湖に打ちました。ところが、弟子の一人から、あの人は「主だ」という言葉を聞いた途端、ペトロに掛けられていた言葉がイエスさまの言葉として心に響いてきました。すると、ペトロは自分が主イエスの裁判の夜、三度もイエスさまを知らないと言ったことを思い出し、ハッとして、あわてて上着を着て湖の中に飛び込んでしまいました。
 ペトロの行動は、気が短くおっちょこちょいの性格を表しているようですが、エデンの園で主が近づいてこられたとき、身を隠してしまったアダムとエバの様子と重なります。主の声が響くとき、わたしたちは、自分がどういう者であるかを知らされ、主を畏れる自分に気が付きます。
 会堂でも、家庭でも、礼拝を守るときはいつも、主からの呼びかけがあり、それにお応えする私たちがいなければなりません。礼拝のプログラムはそのように整えられています。 礼拝は、まず、心を静めて神さまからの呼びかけを聞くことから始まります。そして、それに応える形で、讃美歌があり、祈りがあります。また、聖書の言葉、説教の言葉を通して主が語ってくださいます。主の語りかけがペトロの心に届いたように、わたしたちの心にも響いてくるように、祈りつつ礼拝をお献げいたしましょう。
 そして、今週も主の招きと導きに従って歩む一週間でありたいと願います。

2020-04-19 今週のみ言葉

「主はわたしの力、わたしの歌 主はわたしの救いとなってくださった。」               出エジプト記 15章2節
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」    ヨハネによる福音書 20章31節
 
 旧約聖書と、新約聖書。どちらにも共通して書かれている主題は何でしょうか? それは、この世界を創られた「神さまによる救い」です。神さまは、この世界を「よい」ものとして創られたと、創世記1章に書かれています。その世界で、神さまが特別に愛し、また、愛された者が神さまを礼拝するように創られました。しかし、人間は罪を犯し、罪の結果としての、死を迎えることになりました。
 神さまはそのことをとても憐れまれました。自らの力では罪の奴隷から抜け出すことのできない人間を、神さまの手によって救われようとされました。旧約では、奴隷生活を送っていたエジプトから、約束の地、カナンへの脱出。また、バビロニアからの解放と、約束の地への帰還。この出来事を通して、神さまはイスラエルの人々に、神さまの救いを告げ知らせました。
 けれども、人間は弱く、繰り返し罪を犯し続けましたので、神の子主イエス・キリストをこの世へと送られました。その方の命によってわたしたちの罪を赦し、神さまのところへ呼び戻すことを実行されたのです。
 聖書の文字を書いたのは、私たち人間ですが、「十戒」の言葉が、神さまから与えられた言葉であるように、聖書全体の原作者はこの世界を創られた神さまです。原作者がお一人であるから、聖書の言葉に含まれる神さまの愛、救いの計画と実現は、一貫しています。
 どのような時代にあっても、神さまの愛と救いが変わることがないことを覚えて、新しい一週間を歩んでまいりましょう。

2020-04-12 今週のみ言葉

 「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」     イザヤ書 55章11節
 「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。」
              ルカによる福音書 22章26節
 
 墓の中から復活されたイエスさま。マグダラのマリアは、復活されたイエスさまが自分の後ろに立っておられても、その方が、イエスさまだとは、気が付きませんでした。マリアが、イエスさまが復活されたことを確信し、信じたのは、イエスさまから「マリア」と声を掛けられた瞬間でした。

 わたしたちは、自分以外の人が声を出す時、自分の名前を呼ばれなければ、気が付かないことがあります。アメリカの住宅地で夜間、殺人事件が起きた時、「助けて!」と声を出した女性の叫びを、自分が呼ばれていないと思って、警察に通報しなかった結果、その女性が死亡するという事件がありました。この時、襲われた女性が、その近くにいる誰かの名前を呼んでいたら、警察への通報がなされ、一命を取り留めたのではないかと言う、評論家がいます。
 相手の名前を呼ぶことは、その人の心に向けて呼びかけることでもあります。イエスさまは、復活された時、マグダラのマリアの心に向けて、「マリア」と呼ばれました。その言葉は、神さまからの呼びかけであり、復活された方の言葉でしたので、マリアは、その瞬間、すべてを理解し、イエスさまが復活されたことを言葉と目で見ることで確信しました。

 復活の出来事は、わたしたちが神さまと出会うことです。礼拝に招かれた時、神さまからの呼びかけがあり、わたしたちの心が、その呼びかけに応えるということが、大切なことなのです。

2020-04-05 今週のみ言葉

 「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。」   
              申命記 32章46節~47節 
 「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」
              ルカによる福音書 22章26節
 
 イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセと、弟子たちを通して福音の言葉を語られたイエスさま。どちらも、この世での死を迎える前に、残される人々に向けて言葉を残しました。一人の人が、人生の最後に残す言葉は、どのような言葉であっても、人々の心に残る言葉が多くあります。そして、モーセはイスラエルの民をエジプトで奴隷であった状態から救い出したリーダーとして、イエスさまはすべての人を救うメシアとして残された言葉。
 それは、どちらも、その言葉を聞いて従う人々を、命へと導く言葉でした。律法とイエスさまの教え。どちらも、自分の力だけで、生涯やり続けようとしても、続けることができないほどきびしく、正しい教えです。しかし、その言葉を守るべき教えと捉えるだけでなく、教えを守ることができない自分があり、その自分を赦してくださる神さまがおられることに気が付くことが大切です。そして、気が付くだけでなく、その教えに従って歩むことができるように、願い、祈り続けること。それが、神さまからわたしたちに求められていることだと言えるでしょう。
 神さまの愛に触れて、そのことに気が付く者でありたいと願います。

2020-03-29 今週のみ言葉

「そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。」            イザヤ書 63章8節b~9節 

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
             ヨハネによる福音書 12章24節 


 ヨハネによる福音書12章24節の言葉は、イエスさまが十字架に架けられるご自分を麦の種にたとえて話された、有名な聖句です。
 この言葉は、過ぎ越しの祭の時に礼拝するためにエルサレムに上ってきた何人かのギリシア人がイエスさまにお目にかかりたいと頼んだ時、それを取り次いだ弟子のアンデレとフィリポに向けて話されました。
 主イエスの言葉は、直接弟子だけに語られているようにも思えますが、エルサレムに来たギリシア人とは、ギリシア人であっても、ユダヤ教を信じていた人々でした。つまり、この世界を創られたまことの神さまを礼拝する人々です。
 その人々に向けても、この言葉が語られたということは、主イエスの十字架の死は、ギリシア人であっても、主なる神さまを信じる人のために、神さまがその独り子を献げてくださるということ。そして、それに続けて語られていることは、主を信じるすべての人に向けて語られた言葉でした。

 「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
 十字架での受難を目前に、主イエスはわたしたちに、これから起きる出来事の意味を語ってくださったのです。この言葉に、すべての人に向けた救いが告げられています。

2020-03-22  今週のみ言葉

「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」              サムエル記上 10章1節 

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」
             ヨハネによる福音書 12章7節 

 主なる神さまからの恵み。それは、罪のために死すべき運命にあった私たち人間に、神さまからの愛として。また、神さまご自身がアブラハムを通して与えた契約に誠実であって、決して神さまの方から破ることのない契約として与えられたものです。それは、単に私たちがこの世で幸せであるように、ということだけでなく、死から生へ。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して与えられた、まことの命につながる恵みでした。
 その恵みを受けて、私たちは、この世において、また、後の世においていつまでも主が共にいてくださる恵みの中で生きることができる、という約束です。イエスさまは、これからご自分が十字架で死を迎えることを知られた上で、マリアから尊敬を表すために注がれた香油を、自分が葬られるために注がれた油だと話されました。
 この世界が神さまによって作られたにもかかわらず、自らの勝手な思いで、神さまのみ手の外に出てしまった人間です。しかし、神さまはどこまでもひたむきに、私たちを愛し、神さまのみ手の中に留めるために、イエスさまを十字架に架けられ復活させられました。その出来事は、神さまのみ手の業であり、決定的にただ一度限り。わたしたちの生死を支配している神さまのみ怒りから、み恵みへと変えられる出来事でした。

2020-03-15 今週のみ言葉

 「諸国の民から自由な人々が集められ アブラハムの神の民となる。」           詩編 47編10節

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
     エフェソの信徒への手紙 1章23節

 教会とは何でしょうか? 新約聖書に書かれている「教会」という日本語は、ギリシア語では「エクレーシア」と言い、「エクレーシア」には、元々呼び集められた人という意味があります。
 旧約には、教会という言葉がありません。しかし、「神の民」という言葉があります。「神の民」とは、神さまがこの世の中から選び出して、主なる神さまを信じるようにと、集められた人々のことです。
 唯一の神さまだけを信じるという点では、「教会」も「神の民」も同じです。しかし、「教会」は、すでにこの世に来てくださった救い主。神の子キリストを頭として、互いに結ばれているという点が違っています。

 神さまが選ばれた人に違う点があっても、信じる人がすべてキリストにつながり、同時にお互いがつながっている。そして、互いに足りない部分を補い合う。そこに神さまの愛が示されています。

 「主にあってひとつ」という言葉こそ、「教会」を表す言葉ですし、パウロが言うように、神さまを信じる人々が集まるところに、主の霊が、聖霊が満ちているのが「教会」なのです。

2020-03-08 今週のみ言葉 

 「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」                     イザヤ書 8章8節

 「主よ、信じます」    ヨハネによる福音書 9章38節

 預言者とイエスさま。どちらも、神さまから遣わされた方、という点では同じです。しかし、決定的に違うのは、預言者は人であり、イエスさまは神さまであると共に、人でもあります。
 預言者が神さまから命じられて、預言として話すことは、神さまの力によって実現します。預言者本人の力が働くわけではありません。
 それに対し、イエスさまが語られる言葉は、そのまま神さまの言葉ですから、何かを命じられたら、その命じられたことが起こります。
 新約聖書に書かれている、病を治す話しや、悪霊を追い出す話し。どちらも、イエスさまが神さまとして命じた言葉が、力をもって直接働いています。

 イエスさまは、十字架の死の後、復活して天に昇られたので、今わたしたちは、直接見ることはできません。しかし、聖書に書かれているイエスさまの言葉は、いつまでも残っています。その言葉に力があると信じるなら、わたしたちの願いは、神さまの御心に沿っている限り、何でもかなえられるでしょう。
 しかし、イエスさまの言葉を、単なる倫理的なよい生き方をする教えと考えてしまうなら、力を発揮することはできません。

 イエスさまの言葉を、力ある言葉として信じ、その言葉によって日々の生活を生きることが、わたしたちの力となるのです。

2020-03-01 今週のみ言葉

 「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」 歴代誌上 21章1節

 「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」 マタイによる福音書 4章1節

 聖書に書かれているサタン。悪魔とも言う存在ですが、この世界を創られた神さまが、サタンも創られたとは書いてありません。エデンの園で生活していたエバのところに突然現れるというところから、サタンが聖書に登場します。そして、聖書の所々で、姿を現しています。
 サタンが姿を現して、何かをしようとする時は、働きかける相手が神さまによって、祝福されている。とても良い状態の時に現れることが多いように思えます。ダビデを誘惑したサタンは、ダビデが勝利した戦果を数え上げた後に出てきます。また、ヨブ記の最初に登場するサタンは、ヨブがとても幸せな時に、不幸を持って訪れます。ダビデもヨブもサタンの力の前に、なすすべはありませんでした。ヨブ記を読むと、サタンは神さまの権威の前に服従するものですが、人間に対しては、大きな力を振るいます。
 ところが、神さまであり人であるイエスさまの前に登場したサタンは、イエスさまを誘惑しようとしますが、イエスさまが語られた言葉によって退けられてしまいます。

 イエスさまを誘惑しようとしたサタン。この出来事は、イエスさまは人であったゆえに、サタンからの誘惑を受けたということです。そして、神さまでもありましたから、サタンの誘惑を退けることができました。しかし、サタンの誘惑は、イエスさまが人である限り、イエスさまの人生の中で、繰り返し訪れることになるのです。

イエスさまの言葉:「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネによる福音書16:33