「今週のみ言葉」カテゴリーアーカイブ

2020-03-22  今週のみ言葉

「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」              サムエル記上 10章1節 

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」
             ヨハネによる福音書 12章7節 

 主なる神さまからの恵み。それは、罪のために死すべき運命にあった私たち人間に、神さまからの愛として。また、神さまご自身がアブラハムを通して与えた契約に誠実であって、決して神さまの方から破ることのない契約として与えられたものです。それは、単に私たちがこの世で幸せであるように、ということだけでなく、死から生へ。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して与えられた、まことの命につながる恵みでした。
 その恵みを受けて、私たちは、この世において、また、後の世においていつまでも主が共にいてくださる恵みの中で生きることができる、という約束です。イエスさまは、これからご自分が十字架で死を迎えることを知られた上で、マリアから尊敬を表すために注がれた香油を、自分が葬られるために注がれた油だと話されました。
 この世界が神さまによって作られたにもかかわらず、自らの勝手な思いで、神さまのみ手の外に出てしまった人間です。しかし、神さまはどこまでもひたむきに、私たちを愛し、神さまのみ手の中に留めるために、イエスさまを十字架に架けられ復活させられました。その出来事は、神さまのみ手の業であり、決定的にただ一度限り。わたしたちの生死を支配している神さまのみ怒りから、み恵みへと変えられる出来事でした。

2020-03-15 今週のみ言葉

 「諸国の民から自由な人々が集められ アブラハムの神の民となる。」           詩編 47編10節

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
     エフェソの信徒への手紙 1章23節

 教会とは何でしょうか? 新約聖書に書かれている「教会」という日本語は、ギリシア語では「エクレーシア」と言い、「エクレーシア」には、元々呼び集められた人という意味があります。
 旧約には、教会という言葉がありません。しかし、「神の民」という言葉があります。「神の民」とは、神さまがこの世の中から選び出して、主なる神さまを信じるようにと、集められた人々のことです。
 唯一の神さまだけを信じるという点では、「教会」も「神の民」も同じです。しかし、「教会」は、すでにこの世に来てくださった救い主。神の子キリストを頭として、互いに結ばれているという点が違っています。

 神さまが選ばれた人に違う点があっても、信じる人がすべてキリストにつながり、同時にお互いがつながっている。そして、互いに足りない部分を補い合う。そこに神さまの愛が示されています。

 「主にあってひとつ」という言葉こそ、「教会」を表す言葉ですし、パウロが言うように、神さまを信じる人々が集まるところに、主の霊が、聖霊が満ちているのが「教会」なのです。

2020-03-08 今週のみ言葉 

 「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」                     イザヤ書 8章8節

 「主よ、信じます」    ヨハネによる福音書 9章38節

 預言者とイエスさま。どちらも、神さまから遣わされた方、という点では同じです。しかし、決定的に違うのは、預言者は人であり、イエスさまは神さまであると共に、人でもあります。
 預言者が神さまから命じられて、預言として話すことは、神さまの力によって実現します。預言者本人の力が働くわけではありません。
 それに対し、イエスさまが語られる言葉は、そのまま神さまの言葉ですから、何かを命じられたら、その命じられたことが起こります。
 新約聖書に書かれている、病を治す話しや、悪霊を追い出す話し。どちらも、イエスさまが神さまとして命じた言葉が、力をもって直接働いています。

 イエスさまは、十字架の死の後、復活して天に昇られたので、今わたしたちは、直接見ることはできません。しかし、聖書に書かれているイエスさまの言葉は、いつまでも残っています。その言葉に力があると信じるなら、わたしたちの願いは、神さまの御心に沿っている限り、何でもかなえられるでしょう。
 しかし、イエスさまの言葉を、単なる倫理的なよい生き方をする教えと考えてしまうなら、力を発揮することはできません。

 イエスさまの言葉を、力ある言葉として信じ、その言葉によって日々の生活を生きることが、わたしたちの力となるのです。

2020-03-01 今週のみ言葉

 「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」 歴代誌上 21章1節

 「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」 マタイによる福音書 4章1節

 聖書に書かれているサタン。悪魔とも言う存在ですが、この世界を創られた神さまが、サタンも創られたとは書いてありません。エデンの園で生活していたエバのところに突然現れるというところから、サタンが聖書に登場します。そして、聖書の所々で、姿を現しています。
 サタンが姿を現して、何かをしようとする時は、働きかける相手が神さまによって、祝福されている。とても良い状態の時に現れることが多いように思えます。ダビデを誘惑したサタンは、ダビデが勝利した戦果を数え上げた後に出てきます。また、ヨブ記の最初に登場するサタンは、ヨブがとても幸せな時に、不幸を持って訪れます。ダビデもヨブもサタンの力の前に、なすすべはありませんでした。ヨブ記を読むと、サタンは神さまの権威の前に服従するものですが、人間に対しては、大きな力を振るいます。
 ところが、神さまであり人であるイエスさまの前に登場したサタンは、イエスさまを誘惑しようとしますが、イエスさまが語られた言葉によって退けられてしまいます。

 イエスさまを誘惑しようとしたサタン。この出来事は、イエスさまは人であったゆえに、サタンからの誘惑を受けたということです。そして、神さまでもありましたから、サタンの誘惑を退けることができました。しかし、サタンの誘惑は、イエスさまが人である限り、イエスさまの人生の中で、繰り返し訪れることになるのです。

2020-02-03 今週のみ言葉

 「目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。」 ダニエル書 12章3節

 「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」   ルカによる福音書 21章9節

 この世界が、少なくとも、この地球そのものがやがて終わりを迎えることは、科学者も他の星々の観察から、必ず起きると証明しています。
 もちろん、科学者たちが説明している地球の終わりの時は、ずっと先で、今生きている人も、また、私たちを知る子どもや孫もいない、遠い時代だと言われています。しかし、聖書が私たちに示すこの世の終わりは、いつ、どんな時に来るかは、天の父なる神さまだけがご存知で、私たちが知ることはできないとされています。

 そう聞くと、何か、突然恐ろしいことが起きるかのように思えるかも知れませんが、そうではありません。主イエス・キリストを信じる人々は、この世の終わりかと思えることが起きても、世の終わりはすぐに来ないことを知らされています。
 また、主イエスによって救われ、また、主イエスを証しすることで、他の人を救いへと導いた人々は、この世の終わりの後、「とこしえに星と輝く」と、神さまが約束していてくださるからです。

 主イエスのみ言葉にこそ力があり、まことの光と平安が私たちに与えられているのです。