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2020-02-03 今週のみ言葉

 「目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。」 ダニエル書 12章3節

 「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」   ルカによる福音書 21章9節

 この世界が、少なくとも、この地球そのものがやがて終わりを迎えることは、科学者も他の星々の観察から、必ず起きると証明しています。
 もちろん、科学者たちが説明している地球の終わりの時は、ずっと先で、今生きている人も、また、私たちを知る子どもや孫もいない、遠い時代だと言われています。しかし、聖書が私たちに示すこの世の終わりは、いつ、どんな時に来るかは、天の父なる神さまだけがご存知で、私たちが知ることはできないとされています。

 そう聞くと、何か、突然恐ろしいことが起きるかのように思えるかも知れませんが、そうではありません。主イエス・キリストを信じる人々は、この世の終わりかと思えることが起きても、世の終わりはすぐに来ないことを知らされています。
 また、主イエスによって救われ、また、主イエスを証しすることで、他の人を救いへと導いた人々は、この世の終わりの後、「とこしえに星と輝く」と、神さまが約束していてくださるからです。

 主イエスのみ言葉にこそ力があり、まことの光と平安が私たちに与えられているのです。

「救いが告げられた」2019/12/16

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた」 イザヤ書 52編7節

「わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
         ヨハネによる福音書 7章29節

 イザヤ書52章に書かれている「良い知らせ」は、口語訳聖書では「よきおとずれ」となっていました。この言葉は、ヘブル語の「おとずれる」という動詞を訳したものですが、その単語には、「喜び」という意味も含まれていました。この言葉は、新約聖書のギリシア語で「エウアンゲリオン」[福音]という言葉になります。
 ギリシア語の「エウアンゲリオン」は、「良い知らせ」というだけでなく、「戦勝の知らせ」の時に使われましたので、聖書において、神さまがこの世に来てくださり、私たちの王となられた。私たちの罪そして、悪に勝利されたことが告げられたという意味へと変わっていったのです。

 古代において、戦勝のしらせは、使者が勝利した街に走って行って、高いところから人々に告げ知らせました。その使者は、戦いに勝利した将軍から遣わされましたが、イエスさまは、父なる神さまから遣わされ、この世の罪と悪に勝利されたことを告げるために、私たちのところへと遣わされたのです。クリスマスは、その勝利宣言の始まりでした。その後、十字架での受難を経て、死から復活された主イエスこそ、私たちにとって、平和の使者、福音を告げる方、私たちの王となられたのです。

「父から遣わされた方」

「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」         列王記上 22編14節

「わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」
       ヨハネによる福音書 5章36節

 イエスさまが、私たちに福音を教えてくださった時、「言葉」と「業」とによって示されたと、聖書にあります。「言葉」とは、イエスさまが話された言葉そのものを言っているのと、旧約聖書に書かれている救い主、メシアに関する預言を使って、福音を告げられました。また、「業」とは、イエスさまが病人を癒やし、悪霊を追い出し、嵐を静める等、「奇跡」と呼ばれている出来事を指しています。
 イエスさまは、神さまでありまた、人でもありましたので、イエスさまが語られた言葉そのものが、神さまの言葉。あるいは、父なる神さまから託された言葉でした。また、「業」も神さまによって行われた出来事でした。
 イエスさまが復活されて天に昇られたあと、私たちはイエスさまを直接見ることはできません。しかし、毎週日曜日礼拝で語られる説教は、神さまから預けられた言葉を牧師が語り、礼拝の中に共にいてくださる聖霊なる神さまが、私たちの信仰をより深く、豊かなものへとしてくださるのです。
 旧約聖書に登場する預言者たちは、聞いた時、よいと思うことも、悪いと思うこともすべて神さまから託された言葉を語りました。そのことが、神さまによって選びだされ、神さまに仕える者としてなすべきことであったからです。わたしたちも、礼拝で語られるみ言葉は、神さまから託され、与えられ、私たちに希望と力を与えるものであると信じて、礼拝を大切に守りたいと思います。

「後から来られる方」

「わたしは来て あなたのただ中に住まう」                ゼカリヤ書 2編14節

「その人はわたしの後から来られる方」
          ヨハネによる福音書 5章36節

 お迎えに行かなければ来ない人と、待っていても来てくれる人のどちらを、あなたは好きになるでしょうか?
 突然こんなことを聞かれたら、どういうことだろうか? と思ってしまうのではないでしょうか。
 じつは、これは、この世の中で神さまとよばれている方のことについて聞いています。日本の神社に祭られている神さまは、年に一度は、お神輿に担がれて、待っている人のところへつれていかれます。また、お寺で祭っている仏は、お寺に行くか、うつし身といって、同じ仏の像として作った仏像を持ち帰ることで、必要としている人のところに来ます。

 ところが、一切像を作ってはならないと言われた、私たちの神さまは、神さまを信じる人のところへ来てくださる方なのです。イエスさまがこの世に生まれる前は、エルサレムにあった神殿に神さまがおられると信じられていましたが、イエスさまがお生まれになったことで、神さまが人となって私たちのところへと来てくださいました。
 わたしたちはだれでも、行動できる範囲を限られたり、してもよい行動が制限されたら、不満を持ったり、不安になったりします。ところが、わたしたちの神さまは、私たちを救うために、人となられました。神さまとしての権限、力の行使を後回しにしてでも、私たちのところへと来てくださったということ。
 そのことに、神さまの愛が示されています。

「教会の幻」

 私たちは、今、この日本で暮らす信仰者として。長い間、日本の伝道がふるわない。なかなか信徒が増えていかない。そればかりか、最近では、世の中で言われている、少子高齢化を反映して、教会の教勢が落ちていると嘆いています。しかし、そう嘆くことが、本当に私たちが抱えている問題を的確に捉えて、対応することに結び付いているのか? という疑問を私は、持っています。

 現在、日本のクリスチャン人口は、カトリックとプロテスタントを合わせても、1%に満たないと言われています。
 それに対し、戦前、戦中、キリスト教よりも弾圧を受けた、創価学会。創価学会は、戦後、家族毎に伝道活動をするということで、現在3%の信者がいると言われています。創価学会の伝道の方法は、以前は説伏と呼ばれる強引な方法もありましたが、家族単位に布教をしたことで、信者を増やしました。
 家族単位で信者が増えたことで、信仰の継承。親から子へ、子から孫へという信仰の継承が、キリスト教よりも容易であると言われています。家族単位で同じ信仰を持つと、冠婚葬祭。とりわけ、結婚式や葬儀という場面で、同じ信仰を持っているという安心感があります。
 創価学会はもちろん、キリスト教ではありませんが、彼らが取り組んだ伝道の中に、多くの人を教会に招くための、何らかのヒントがあるのではないでしょうか?

 聖書の中で、パウロたちが行った伝道を考えてみると、聖書が書かれている時代、今あるような「礼拝堂」、という建物はありませんでした。
 ユダヤ人が各地に建てた、「会堂」を使って伝道することはありましたが、多くは家の教会と呼ばれる、個人の家での礼拝が行われました。また、ローマ帝国の迫害が厳しい時代、地下墓地と訳される「カタコンベ」という場所で、礼拝が行われたことが知られています。
 礼拝の場所が、そういう場所であったことを考えると、家族の中の誰か一人が、イエスさまの教えに興味を持って出かけて行く、ということは少なかったのではないでしょうか。一人ではなく、家族全員で、イエスさまの話しを聞き、家族全員が信徒になるということが起きたでしょう。
 実際、使徒言行録16章で、牢に捕らわれていたパウロとシラスが大地震が起きて、牢から脱出する機会を得た時、驚いて自殺を図った看守を助けたことから、家族全員が信徒になったという記事があります。
 私たちも、日本の伝道を考える時、機会を捉えて、家族全体に福音を伝えることを考えていくべきではないでしょうか。

 日本における伝道不振の解決策。それは、教会に集う一人一人が御言葉の力によって、聖霊の助けによって、信仰を深められ、豊かにされること。そこから始まり、家族ぐるみへの伝道、福音を語ること、自らの生き方そのものによって、主イエスを証しすること。
 そのことを通して、それぞれの教会の伝道。そして、日本の伝道の新たな道筋が開けていくのではないでしょうか。

 教会に来る人が少ない、と嘆く人が多くいますが、これから教会に招くことができる人の数は、本当に少ないのでしょうか?
 先日行われた、参議院選挙の投票率が、50%以下であったという報道がありました。この報道を聞いたとき、私は、物事に対する関心がない人が、日本人の半数近くもいると思いました。
 であるなら、そこにはまだまだ、福音を語る余地、伝道をする余地が残されていると思います。なぜなら、政治にすら、無関心である人の心の中には、神さまを受け入れるだけの余地が、まだ残されていると思うからです。

 教会の中で、伝道不振を嘆くのではなく、まだまだ福音が届いていないところが多くあり、御言葉の力によって、多くの人が救われる希望があることを覚えて、歩んで行きたいと思います。

「七転び八起き」

 最近、東田直樹という著者が書いた、「七転び八起き」という本を読みました。この著者は、他の作家と一つ違う点があります。それは、彼が重度の自閉症であるということです。
 自閉症の障がいを持っている人は、通常他人とのコミュニケーションが困難です。自分の思い、考えを人に伝えることがとても困難です。ところが、彼の場合、母親が根気強く彼を助け、筆談を教え、文字盤を押さえることで、自分の思いを表現することができるようになりました。
 それで、彼は自分の思いを文字の形で他の人に伝えることができるようになりました。

 彼が書いている文書の中で、自閉症のために、自分でしたいと思わない行動をしてしまう、また、同じ行動を繰り返してしまうことで、周囲の人が、その行動が好きだと誤解してしまうと書いています。彼がそういう行動を取った時、周囲の人が非難するのではなく、危険な行動でないかぎり、そのままにしてもらいたい。しかし、危険な行動はすぐに止めてもらいたいと書いてありました。

 この文書を読んだ時、使徒パウロが、私たちは罪の奴隷です。自分がしたいと思うことができず、したくないと思うことをしてしまうのです、と言っている言葉が重なってきました。
 罪の奴隷である人間の行動が、悪へ走る時は止めなければなりません。しかし、悪に結び付く以外の行動は、その人が置かれている環境や、その人の行動を、無理やり変えるのではなく、人格を尊重して、共に寄り添っていく。という姿勢が、信仰を守り育てていく上で大切なのではないでしょうか。
 彼の本を読んで、そのように感じさせられました。

「神さまが見せる幻」

 この世の中で、自分が住んでいる国と仲の悪い国が、武力を高めるためにたくさんの武器を準備しているとき、対抗しなければならない自国はどうするでしょうか。おそらく自国の武器をたくさん買って、相手が簡単に攻め込んでこないようにと考えるのではないでしょうか。

 旧約聖書には、イスラエルと周辺の国々が何度も戦ったことが書かれています。多くは、勝った、負けたということですが、列王記下6章には、預言者エリシャがイスラエルの敵アラムを、神さまが準備された軍で追い払ったことが書かれています。
 ドタンという町にエリシャと彼の従者がいた時、イスラエル軍に神さまからの指令を伝え、イスラエル軍を有利に導いていたエリシャを捉えようと、敵アラム軍がやって来て、町を包囲しました。
 すると、エリシャは神さまに祈り、従者の目を開くようにお願いしました。神さまがその願いを聞いて、従者の目を開いたところ、通常では見えるはずのない神の軍隊が、エリシャたちを囲って守っていることが見えたのです。
 エリシャと従者の周りを、火の馬と戦車が囲んでいるのが見えました。そして、その数は敵の数よりも多かったのです。
 さて、神さまが準備された軍はその後どうしたでしょうか?敵のアラムを倒しに出陣したでしょうか?
 いいえ、そうではありませんでした。神さまは、エリシャを用いて、敵の軍を欺き、別の町へと移動させ、イスラエルと直接戦わないようにされたのです。
 その様子を見たイスラエルの王はエリシャにたずねました。
 「わたしの父よ、わたしが打ち殺しましょうか、打ち殺しましょうか」
 イスラエルの王の目に映っていたのは、敵であるアラムが神さまの計画によって追われた時、今こそ、敵を倒す機会だということでした。
 ところが、イスラエルの王から問いかけを受けたエリシャは、思いも掛けないことを話したのです。
 「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
 神さまは、イスラエルの王に戦いを命じるのではなく、敵をもてなすための宴会を開かせ、敵が食事に満足して、国へ戻り、二度とイスラエルを攻めようとはしなかったのです。

 この話を聞いて、これは単に聖書の中だけの話しと思うでしょうか?
いいえ、今この世において、国と国が、人と人が考え方の違いから、敵対して対立し、武力で争おうと考えた時、武力を使わない解決方法があるのだということを、私たちは思い描かないといけないでしょう。
 私たち、神さまを信じる者がなすべきことは、神さまに祈り、神さまから示される解決方法。武力によらず、問題を解決する方法を願い求め、与えられた方法で和解し、神さまのみ心にかなう道に進むことが私たちに求められているのだと思います。

 多くの国が、自分たちの国のことだけを、いえ、自分のことだけを考えようとしている時こそ、神さまに解決策を求め、互いに愛し合うべき存在であることを覚えて、国と国が、人と人が共に暮らすことができる世の中を求めて行くべきではないでしょうか。
 その答えが、聖書の中にあると思います。そしてなにより、敵をも愛し、敵から十字架につけられた時でも、敵を許された主イエスの愛に私たちは、ならいたいと思います。

「悔い改めと救い」

「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」               ルカによる福音書 13編3節
「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。… わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」    エゼキエル書 18章31、32節
 
 罪の悔い改めと救い。これは、どちらも神さまの審きに関係している言葉です。2000年前に私たちのところに来てくださったイエスさまが、救い主と呼ばれていることは、クリスチャンでない人にもよく知られています。
 ところが、「救い」という言葉の意味を本当に知っている人となるとどれだけいるでしょうか? 「救い出す」ということは、窮地に陥っている時、危険な状態にある時にその場面から安全な場所へ移すということです。
 聖書で語られている救いは、罪から救い出すことです。聖書が語る罪とは、人間が定めた法律や掟を破ることだけではありません。唯一まことの神さまを信じようとしないこと、神さまのみ心に従って歩むことをしないことなども罪だと言われています。
 人がその罪を悔い改めないままでいると、この世の終わりにイエスさまが再臨し、この世の悪を裁かれる時、罪を悔い改めなかった者は、罪の結果による第二の死を迎え、永遠に苦しまなければならないと、ヨハネの黙示録20章で預言されています。

 イエスさまは、被造物である私たちがそのような苦しみを受けることを喜ばれません。ですので、この世に来られた時、罪の悔い改めをするようにと、繰り返し私たちに教えられたのです。

「目を覚ましていなさい」

「無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。」                 箴言 12章15節
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」                 ルカによる福音書 12章35節
 
 「目を覚ましていなさい」という説教題。これはなにも、夜通しまぶたを開けている、ということではありません。ある日突然、思いがけないことが起きたとしても、すぐに行動できるように、準備をしておきなさいということです。それが「目を覚ましている」こととして、聖書で語られています。
 では、何に対して準備をしておくのでしょうか。それは、十字架の後、復活され天に昇られたイエスさまが、再びこの世に来られる時の準備をしておくということです。イエスさまが再びこの世に来られた時、この世で生きて、死を迎えた人がすべてよみがえって、神さまの裁きを受けます。
 イエスさまがいつ来られるのか、あるいは、私たちのこの世での生命が、いつ終わりを迎えるのかは、だれも知らされていません。しかし、その時、私たちがこの世でイエスさまから命じられていたこと。福音を宣べ伝えて、多くの人を救いへと導くことができたかどうかが問われます。それは、私たちのこの世での人生が、どうだったのかを問われるのです。
 その時、イエスさまが、私たちに聞かれることは、何人の人を受洗へと導いたか、というように業績を聞かれるのではなく、一人ひとりの人生が、イエスさまの十字架と復活による救いを証しすることができたのか。イエスさまの救いを自分の生き方を通して証し(証明)することができたか、ということです。

 イエスさまが再び来られた時、イエスさまに喜んでいただける生涯を送るための信仰を、与えていただけるようにと願います。

すべてを見ておられる神さま

聖書 旧約 イザヤ書 51章4節~8節
   新約 ルカによる福音書 12章1節~12節

 みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。

 イエスさまが、ファリサイ派の人の家での食事に招かれ、その席でファリサイ派の人々と律法の専門家たちを非難し、その家から出られた時。数えきれないほどの群衆が集まってきたと、ルカは告げています。
 ユダヤの人々にとって、自分たちの生活に密着して、権威を持つと考えていたファリサイ派の人々や律法の専門家たちを非難する先生とは、どういう人だろうか? あるいは、イエスさまが非難した人々の偽善を見て、ふだんからイエスさまと同じような思いを心の中に抱いていた人たちが、たくさんイエスさまのところに集まってきたのかも知れません。
 一体何人の人がその場所に集まってきたのか、ルカは書いていませんが、どういう場所であったにせよ、「足を踏み合うほど」人がイエスさまの周りを取り囲んだということは、イエスさまに対する人々の関心の高さを示す出来事でした。

 それほどまでに人々が押しかけてきた時、イエスさまはまず弟子たちに話し始められました。1節、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
 イエスさまが、ファリサイ派の人の食事の席に招かれた時、おそらく12人の弟子たち全員が一緒にその席に出かけたのではなかったでしょう。数名の弟子はイエスさまと一緒にその席にいたかもしれませんが、全員は同席していませんでした。
 そこで、イエスさまは、ファリサイ派の人々に向けて語られたことを別の言葉で、弟子たちに話し始められました。
 パン種とは、パンを焼く前に小麦粉に混ぜる酵母菌のことで、発酵することでパン生地を膨らませます。
 新約聖書の中で、パン種という言葉が語られる時、良い意味でも悪い意味でも使われています。今日の箇所では、悪い意味で使われています。
 パン種が発酵する様子から、「腐敗」というイメージで捉えて、イエスさまは、ファリサイ派の人々の言葉、行動が「偽善」であると言われました。
 偽善の言葉を語り、偽善の行いをする人は、そのことが周囲の人々から見られたとき、偽善であることが分からないようにしようとします。けれども、神さまから見られると、それが偽善であることはすぐにわかります。 また、偽善にはどこか矛盾があり、やがて周囲の人々にも彼は、彼女は、偽善の言葉で話し、偽善の行いをしていると分かってしまうのです。

 しかし、イエスさまが1節から3節で、弟子たちに語られたことは、単に良く取り繕って見える「偽善」のことだけではありませんでした。3節に、「あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」とあります。主イェスを自分の先生として従い、神さまから遣わされたメシア。救い主と信じるようになった人が、この世の中で、神さまを信じない人々からつらく当たられたり、迫害を受けたりした時、イエスさまから教えられたことを隠すことはしていませんか?と、イエスさまが言っておられるのです。
 福音書を書いたルカは、ルカが属していた教会の人々にこの福音書を読んでもらいたいと思って書いています。そして、ルカが教会で信仰生活を送っていた頃、ユダヤ人だけでなく、ローマからも、キリスト者に対する迫害が始まっていました。
 そこで、キリストを信じて、信徒となった人が、福音の教えを誰にも聞かれないようにと考えて、こそこそと語るのではなく、人々の前で明るいところで語り伝えていくべきだ、ということをイエスさまの言葉によって伝えているのです。

 イエスさまは、弟子たちにファリサイ派の人々の教えに注意しなければならないと教えた後、今度は、「友人」と呼び掛けた、イエスさまの周囲に集まってきた群衆に向けて話し始められました。
 4節。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」
 私たちに与えられている生命は、70、80年。長く生きても100歳過ぎぐらいまでしか生命をつなぐことはできません。
 けれども、この世での生を終わった後、神さまの御手の中に置かれる。神さまの御支配の中に永遠に置かれると考えるなら、この世での短い時間のことよりも、この世での生を終わった後、永遠に続く神さまの御支配のことを考えなければならないと言うことは、容易に想像することができるでしょう。

 イエスさまはここで、2つのことを言っておられます。一つ目は、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」を恐れなさいということ。
 この世での生を終えた後の人を、私たちは、この世にいてどうすることもできません。既に肉体と魂を失った人を、私たち人間がどうこうすることはできないのです。
 では、誰がその人に影響を与えることができるのか?
 それは、この世界を創られ、私たちの世界、そして、この世での生を終わった後も支配されている神さまだけが、そのことに関与することができる方であると、イエスさまは言われているのです。

 聖書の中で、取り上げられる、私たちの生命が終わった後のことについての記述。それは、一人ひとりがどうなるかと言うことよりも、この世の終わりに、裁きを行い、また、裁きの結果救いへと招かれる方が来られる時のことが、黙示と呼ばれる文書の中に。新約聖書ではヨハネの黙示録や、福音書の中で語られています。
 その預言は、日本の仏教で語られている、生前の行いに応じて報いを受け、極楽又は地獄に行くということではありません。
 ただ、神さまの憐(あわ)れみ、恵みによって選ばれた人たちが救いに与(あずか)ることができる、ということです。
 人間がこの世で生きている間に行った良いことや悪いことの評価で、将来が決まるとは言われていないのです。
 しかし、だからといって、この世で何をしてもよいということではありません。
 神さまからの呼び掛けに応えて、神さまから信仰をいただき、神さまに従って歩むこと。そのことを、神さまからの招きに応えて歩むことができた人は、確実に、この世の終わりの審きの時に、神さまのもとへと招かれると預言されています。

 6節で書かれている5羽の雀。当時、ユダヤの人々は、食用に雀類の小鳥を食べていたようです。そして、二アサリオンという値段は、今のお金に換算すると十円程度の価値です。
 日常生活の中で、十円で何かを買えるかというと、ほとんど買えるものはありません。それほどまでに、価値のない小鳥であっても、その命を神さまが忘れることはなく、マタイによる福音書では、神さまの許しがなければ、小鳥の命が取り上げられることはないと言われています。

 そして、小鳥よりもはるかに価値があると、私たちが考えている人間について。神さまは、私たちが互いに知っている関係以上に、私たち一人ひとりのことをご存知で、一人ひとりの髪の毛の本数までご存知であると言われています。
 イエスさまが、髪の毛をたとえとして言われたのは、当時のユダヤ人たちが、人の力は髪の毛に宿っていると考えていたからかもしれません。
 旧約聖書に登場し、怪力で知られているサムソンという人物は、母親が子どもを授かる前から神さまに祈り、生まれてきた子どものサムソンを神さまに献げ、神さまに仕える人として育てられました。そして、神さまにその生涯を献げた人は、神さまからいただいた力を失うことがないように、髪の毛を切ることをしませんでした。
 そのことをユダヤ人たちはみな知っていましたので、髪の毛の本数のことを言われたのかも知れません。
 そして、神さまがいつも見ていてくださる私たちは、少しの額のお金で売り買いされている雀よりもはるかに値の高い者であるから、神さまは私たちのことをおろそかにはしないのだと、イエスさまが言われたのです。
 髪の毛の数まですべて知っておられるということは、すべての人の人生を、この世に生まれる前、お母さんのお腹の中にいるときから、この世での生を終わるまで、すべてご存知であるということなのです。
 私たちが、すべてを知っておられる方の前に出なければならないなら、私たちはどうすれば良いのでしょうか?

 さて、それらのことを語られた後、イエスさまは、こう言われました。
 8節。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」
 イエスさまが、伝道活動をされていた時、ご自身が伝えておられたことは、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい。」ということでした。
 神さまがこの世を御支配される時は既に来ている。そして、神さまがこの世を裁かれる時が、日々近づいている。だから、私たちは自分自身の罪を悔い改めて、神さまを信じなければならない。イエスさまが、福音と言われている、主イエス・キリストの十字架の死による罪の贖(あがな)い、永遠の生命に至る道。これを信じなさいと。
 そのことを自分は信じ、また、多くの人に伝え、伝えていると公に告白する。 そう表明する人は、「人の子」と言う言葉で、ご自身を示されたイエスさまは、十字架での死の後、復活され、天に昇り、私たちがこの世での生を終えた後、神さまの御手の中に迎えられる時、私たちをイエスさまの仲間であると。神さまを信じてこの世での生を送った人であると、言ってくださると言われています。
 言い替えるなら、私たちが神さまの前に呼び出されたとき、イエスさまが私たちのことを弁護してくださるということです。

 しかし、この世で神さまからの呼び掛けに応えて、神さまを信じる信仰を与えられることがなかった人は、この世での生を終えた後、神さまのところに呼び出されても、イエスさまはその人を知らないと言われ、私たちの将来は何も約束されていないのだと言われます。

 また、10節の言葉。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」
 この言葉の意味は、よくよく確かめて聞かないと、非常に分かりづらいものになっています。
 なぜなら、キリスト教で、父なる神さま、子なるキリスト、聖霊なる神さまはみな、一つの神さまであると考えているからです。
 その理解で読むと、神さまの子であるイエスさまの悪口を言う人は赦されるけれども、聖霊なる神さまを冒瀆する者は赦されないと聞こえてくるからです。

 では、どのように解釈すれば良いのでしょうか?
 はじめに、人の子と言われているイエスさまの悪口を言う者。この人は、イエスさまが神さまから遣わされた方であることを、まだ知ることができていない人を指しています。まだ知識において、信仰においてイエスさまのことを知らない場合、イエスさまに対する悪口を言っても、神さまは赦(ゆる)してくださるだろうということ。

 それに対し、聖霊を冒瀆する者とは、イエスさまが復活の後天に昇られ、この世に作られた教会で、聖霊の働きを信じず、礼拝に集まる時、神さまを拝む姿勢さえ繰り返していれば救われると思っているなら、それは神さまが建てられた教会を侮辱し、教会の存続が成り立たなくなってしまう。
 その理由から、この世の教会を建てくださる聖霊の働きを信じないで、冒瀆する人の罪は赦(ゆる)されないと言われているのです。

 また、神さまの霊。聖霊の働きは、私たちの死の後から始まるのではないということが、11節、12節で語られています。
 ルカが書いた福音書を最初に読んだ教会の人々は、教会やキリスト者に対する迫害の中で、福音を語り続けなければなりませんでした。
 イエスさまの復活の後、この世に誕生した教会が、これからもこの世の中に立ち続けるために、イエスさまが語られた福音を証(あか)しし、イエスさまご自身がメシアであることをこの世に対して証(あか)ししていかなければ、地上の教会が大きくなることができません。
 そこで、迫害される人々が、「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたとき」、主イエス・キリストを証(あか)しするために、神さまから降(くだ)される聖霊が与えられ、キリストを信じる人に代わって、証(あか)しする言葉を授けてくれると、イエスさまは言われているのです。

 旧約聖書にある、イザヤ書は、預言者イザヤが人々に伝えた預言が治められています。この書は、少なくても3人のイザヤと呼ばれた預言者たちが預言した言葉だと言われています。
 1章から39章までが、第一イザヤ、40章から55章までが、第二イザヤ、56章から66章までが第三イザヤの預言として区分されています。
 第一イザヤは、主に、人々が神さまに対して犯した罪に対する裁きが語られ、第二イザヤ、第三イザヤは、罪を悔い改めた人々に対する神さまの救いが預言の中心的な事柄として語られています。

 今日読んだ、イザヤ書51章は、罪を悔い改めて、神さまの召しによって集められた人々に対する救いが語られています。
 そして、イザヤが預言したことは、イエスさまがこの世に来られたことで、実現します。51章4節の、「教えはわたしのもとから出る。」という言葉は、イエスさまが語られた言葉が、私たち人間に対する教えとなって与えられ、「わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」という言葉は、イエスさまが、この世の人々に対し、自分の罪を悔い改めようとしない人に対する非難の言葉であり、罪を悔い改めて神さまに応答する人に対する救いの言葉となることで、実現したのです。

 神さまからの言葉、憐(あわ)れみ、恵みは、イエスさまを通して、私たちに具体的に与えられました。そして、それは、イエスさまがこの世におられた時だけでなく、イザヤ書51章6節にあるように、この世がどのように変わったとしても、
 「わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。」ものであるのです。

 神さまの恵みは永遠に与えられるものであり、この世が終わりを迎える時まで、私たちが、神さまからの呼びかけに応え、救いへと招かれる機会を与えています。
 イエスさまが、たとえを用いて非難された人々のようにではなく、神さまの権威を恐れ、神さまが私たち一人ひとりを愛しておられることを知り、聖霊なる神さまの働きを心から信じて従う者となりたいと願います。

 聖霊なる神さまが、今ここに、私たちと共にいてくださる恵みは、イエスさまが十字架に架けられる前、弟子たちを通して約束されていたことであり、十字架と復活の出来事を通して、私たちに与えられている恵みです。

 今週もこの恵みの中を、日々、一歩ずつ信仰の道を歩んで参りたいと願います。