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小さなコラム「人を憎むのではなく、愛すること」

 この世に生を受けて誕生したほとんどの人は、生まれた時から、傷つけられたり、傷つけたりしようと願う人はいないでしょう。すやすやと眠る赤ん坊の顔を見ると、この子が誰かを憎むことは考えられないと、思います。ところが、赤ん坊が成長し、社会の一員として成長していく中で、さまざまな影響を受けて、自分とは違うところがある人に対する偏見を持つことがあります。

 一人の人が、だれかを傷つけることは許されないと思っていても、これが、社会の中の大きなグループになればなるほど、その感情が薄れ、国の規模になると、戦争をして相手を傷つけてもよいと思ことが、歴史の中で繰り返されてきました。そういう思いが浮かんでくることは、とても悲しいことです。

 しかし、聖書には、イエスさまがこのように言われたことが書かれています。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42 )

 私たちが、社会の中の大きなグループに対して敵意や憎しみを感じた時、イエスさまが言われた言葉を思い出してみましょう。自分と他人に違いがあっても、人が人を愛する気持ちは、神さまから与えられた恵みとして、必ず持っているはずです。他人の暴力を見て、暴力で立ち向かおうとしてはいけません。そうではなく、どうすればイエスさまがわたしたちを愛してくださったことに、お応えすることができるかを、祈り求めて行くことが、キリスト者に問われていることではないでしょうか。 主イエスが十字架の上で死に至るまで、私たちを、しかも主イエスを憎むものさえ愛してくださったことを、決して忘れてはいけません。

今週のみ言葉「くじが持つ意味」

「アロンは二(ひき)()山羊(やぎ)についてくじを()き、一(ぴき)(しゅ)のもの、()の一(ぴき)をアザゼルのものと()める。」   レビ記 16章8節

 「二人(ふたり)のことでくじを()くと、マティアに()たったので、この(ひと)が十一(にん)使徒(しと)仲間(なかま)(くわ)えられることになった。」
                   使徒言行録 1章26節

 わたしたちが、「くじ」と聞くと、当たる可能性があるかどうか、不確かな物のように思えるのではないでしょうか?確かに、私たちが生活の中で出会う「くじ」は、商店のくじ引きの「くじ」や、宝くじのような、当たる可能性が低い「くじ」のことを思い浮かべるでしょう。これらの「くじ」は、偶然の確率によって、当たりを引き当てることができます。

 それに対し、書に書かれている「くじ」は、くじを引いた結果に、神さまの意志が働く「くじ」です。神さまに献げる最上の物が2つあって、どちらか選ぶことができない時に引く「くじ」。また、熱心に主に従う弟子の内、どちらを使徒として立てるかを決める時に引く「くじ」。人間の意志では決めかねることを、正しい判断に委ねる時に、聖書では神さまの思いが示されるように、「くじ」を引きました。

 わたしたちが、信仰生活を続ける中で、判断に迷ったり、先に進めばよいのか、まだ立ち止まった方がよいかを迷う時、自分の思いだけで先に進むことはないでしょうか。そんな時、聖書は、神さまの思いを伺うために、まず祈り求めなさいと教えています。神さまはすべてをご存知ですが、この世で迷いを持つ私たちが祈りを献げる時、必ず最も良い答えを与えてくださいます。願ったとおりの答えそのものでなくても、後から振り返ってみた時、あの時、祈って判断できたことが良い結果につながったと思えることがあるでしょう。  わたしたちは、最善を尽くした上で、神さまのみ心に聞く「くじ」を引きたいと思います。

小さなコラム「人は何で生きるか」

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 マタイによる福音書4章4節
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」 申命記8章3節

 上に書いた聖書の言葉は、非常に有名な言葉です。では、だれがこの言葉を言ったでしょうか? 福音書の言葉は、イエスさまが言われた言葉だと、多くの人は気が付くでしょう。では、申命記に書かれている言葉は誰の言葉か? 申命記は、モーセが自分の命が終わる前に、イスラエルの民がこれから約束の地、カナンに入る前に残した言葉として書かれました。つまり、申命記の言葉はモーセが残した言葉です。モーセは、イスラエルの民が40年の間、シナイの荒れ野を旅した時、神さまが天から与えてくれた食べ物(マナ)を取り上げて、これは、口から入って生命をつなぐものであった。そして、それは、神さまが与えるものが、人の生命をつなぐものであることを教えるためであったと言っています。
 わたしたちの身体を生き続けさせるためには、栄養となる食べ物が必要です。そして、神さまからその身体にいただいている「霊」。「魂」が必要とする栄養は、主の言葉。聖書の言葉であると言えるでしょう。

 いつの時代であっても、困難な状況から救い出し、希望と力を与えてくれるのは、主の言葉。聖書の言葉です。一日、一日、主の言葉を読み、その言葉に示されている神さまの愛、憐れみ、罪の赦しを受けて、生き生きと生きる者とさせていただきたいと願います。

今週のみ言葉「くじが持つ意味」

「アロンは二(ひき)()山羊(やぎ)についてくじを()き、一(ぴき)(しゅ)のもの、()の一(ぴき)をアザゼルのものと()める。」   レビ記 16章8節

二人(ふたり)のことでくじを()くと、マティアに()たったので、この(ひと)が十一(にん)使徒(しと)仲間(なかま)(くわ)えられることになった。」
                   使徒言行録 1章26節

 わたしたちが、「くじ」と聞くと、当たる可能性があるかどうか、不確かな物のように思えるのではないでしょうか?確かに、私たちが生活の中で出会う「くじ」は、商店のくじ引きの「くじ」や、宝くじのような、当たる可能性が低い「くじ」のことを思い浮かべるでしょう。これらの「くじ」は、偶然の確率によって、当たりを引き当てることができます。

 それに対し、書に書かれている「くじ」は、くじを引いた結果に、神さまの意志が働く「くじ」です。神さまに献げる最上の物が2つあって、どちらか選ぶことができない時に引く「くじ」。また、熱心に主に従う弟子の内、どちらを使徒として立てるかを決める時に引く「くじ」。人間の意志では決めかねることを、正しい判断に委ねる時に、聖書では神さまの思いが示されるように、「くじ」を引きました。

 わたしたちが、信仰生活を続ける中で、判断に迷ったり、先に進めばよいのか、まだ立ち止まった方がよいかを迷う時、自分の思いだけで先に進むことはないでしょうか。そんな時、聖書は、神さまの思いを伺うために、まず祈り求めなさいと教えています。神さまはすべてをご存知ですが、この世で迷いを持つ私たちが祈りを献げる時、必ず最も良い答えを与えてくださいます。願ったとおりの答えそのものでなくても、後から振り返ってみた時、あの時、祈って判断できたことが良い結果につながったと思えることがあるでしょう。  わたしたちは、最善を尽くした上で、神さまのみ心に聞く「くじ」を引きたいと思います。

今週のみ言葉「聖霊が働いてくださる」

(かみ)(したが)(ひと)信仰(しんこう)によって()きる。」 ハバクク書 2章4節

(はじ)めから()いていたことを、(こころ)にとどめなさい。(はじ)めから()いていたことが、あなたがたの(うち)にいつもあるならば、あなたがたも御子(みこ)(うち)に、また御父(おんちち)(うち)にいつもいるでしょう。これこそ、御子(みこ)がわたしたちに約束(やくそく)された約束(やくそく)永遠(えいえん)(いのち)です。」
               ヨハネの手紙一 2章24、25節

 私たちが、神さまを信じる、信仰するとは、どういうことでしょうか?

 ありがたいもの、不思議なもの、力あるものを崇め祭るということではありません。決して変わることがない、力あるもの、信頼できるものに寄り頼み、その方の、み守りの中に入れていただきたい。ということが、「信じる」ということを表す一つの表現でしょう。そして、守られるだけでなく、この世での生命も、この世での生命が終わった後も、確かなものによって生き続けたいという願いが、「信仰する」ことではないでしょうか。

 「信仰の父」と呼ばれているアブラハムは、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)とあるように、主から与えられた信仰によって、義(正しい人)とされて、彼の子孫すべてが祝福を受け、神さまにつながる者とされるようになりました。  この世界を創られ、支配されている、決してゆるぐことのない方を信じることは、「信じさせていただく」ということであり、その信仰は、神さまからわたしたちに、主イエスによる十字架の恵みを通して与えられるものです。神さまが私たち人間の歴史の中に入ってきてくださり、この大きな恵みを与えてくださったことの感謝を忘れずに過ごしたいと思います。

今週のみ言葉「求めることと極めること」

(しゅ)(ひと)一歩(いっぽ)一歩(いっぽ)(さだ)め 御旨(みむね)にかなう(みち)(そな)えてくださる。」                詩編 37章23節

「あなたはこれらのことを()けなさい。正義(せいぎ)信心(しんじん)信仰(しんこう)(あい)忍耐(にんたい)柔和(にゅうわ)()(もと)めなさい。」
              テモテへの手紙一 6章11節

 すでに洗礼を受けられた方は、どのようにして主イエス・キリストと出会われたでしょうか? そして、洗礼を受けた後、どのように過ごしてこられたでしょうか?

 イエスさまから罪の赦しをいただいて、永遠の生命に至る道を歩むためには、洗礼を受けなければなりません。そして、洗礼を受けることで、信仰が完成するのではなく、そこから信仰の道を新しく始めると言っていいでしょう。

 わたしたちが、この世で何かを極めよう、求めようとするとき、それに至る道、手順を踏まなければなりません。簡単に手に入れることができるものであればよいのですが、なかなか手に入れることが難しいものは、時間が掛かりますし、高度に専門的なことや、職人技のようなものは、どれほど追い求めても、これで完成したということができないものが多くあります。

 信仰の道を歩むことは、この世で何かを極めることと違いますが、この世での歩みを終えるときまで、求め続けて行くものです。その理由は、人はどれほど年数を重ねても、自分だけの力では罪から逃れることができないからです。  そこで、神さまはこの世に主イエスを送ってくださり、主イエスを通して、信仰の道を歩み続けることができるようにしてくださいました。すべてのよいものは、神さまから主イエスを通して、わたしたちに与えられます。そのことに気が付き、主が備えてくださった道を歩み始めることが、信仰のスタートラインに立ったと言える時でしょう。

今週のみ言葉「聖霊が与えられると」

「その()以来(いらい)(しゅ)(れい)(はげ)しくダビデに(くだ)るようになった。」
                 サムエル記上 16章13節

「すると、一同(いちどう)聖霊(せいれい)()たされ、“(れい)”が(かた)らせるままに、ほかの国々(くにぐに)言葉(ことば)(はな)しだした。」    使徒言行録 2章4節

 聖書に書かれている神さまの呼び方で、「聖霊」という呼び方は一番なじみがない呼び方ではないでしょうか。また、教会に来たばかりの人は、何かよく分からないものだと思われるかもしれません。

 「聖霊」は、天の父なる神さまと同じように、わたしたちの目で直接見ることはできません。しかし、「聖霊」が働く時、その働きを直接目にすることができます。聖書で「聖霊」、主の「霊」が人間に与えられると、その人は神さまから伝えられた言葉を話したり、イエスさまが教えられた福音を話すことができるようになります。それは、人間が学んだ限りある知識では決して理解することができない、神さまの愛、救い主イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の生命。これらのことは、「聖霊」が与えられることで、確信を持って理解することができ、また、他の人に伝えることができるようになると、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一 12章3節に書いています。

 使徒言行録2章3節では、聖霊が目に見えるような形で弟子たちに与えられました。そして、弟子たちが主イエスから教えられた福音を、聞く人々すべてが理解できる言葉で話したことで、聖霊が確かに降ったことが分かりました。  わたしたちも、イエスさまを救い主として信じることができるように、確信を持って希望を抱き続けることができるように、聖霊が与えられるように、と祈り続けたいと思います。

今週のみ言葉「まことの恵みを知る」

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」      詩編 46編章2節

「あなたは、巻物を受け取り、 その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、 あらゆる種族と言葉の違う民、 あらゆる民族と国民の中から、 御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、 また、祭司となさったからです。」           ヨハネの黙示録 5章9、10節

 詩編46編2節の言葉は、力に満ち、恵みにあふれた言葉です。私たちを愛してくださる神さまが、どんな時でも助けてくださるなら、これほど強く信頼できる方はありません。そして、そのことが真実として、示されたのは、主イエスが十字架に架けられ死の後復活し、天に昇って栄光を受けられたからです。今年は、5月24日を主イエスの昇天日として覚えて、礼拝を守っています。

 主イエスが死の後復活されただけであれば、肉体が蘇生しただけだ、と考える人がいるかもしれません。しかし、その後天に挙げられ栄光を受けられた。そして、わたしたちに聖霊を送ってくださるので、わたしたちは神さまからいただく恵みが、真実であると悟ることができるのです。  聖書の言葉は、語られた時から、今に至るまで、そしてこれからも永遠になくなることはありません。いつの時代も私たちを慰め、励まし、力を与えてくれます。この恵みが、神さまからすべての人に向けて与えられていること。そして、その恵みにお応えする私たちにとって、まことの恵みとして実現していることに、感謝して歩みつづけたいと願います。

今週のみ言葉「証し人として用いられる」

「主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」               ホセア書 6章3節

 「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」                    ルカによる福音書 24章47節

 日本とイスラエルでは気候が違い、イスラエルは冬に雨が多く、春から夏にかけては雨がほとんど降らない気候です。しかし、イスラエルの春雨は3,4月ごろに降って穀物の実りを豊かにする雨ですから、祝福の雨とされています。

 弟子たちの前に現れた復活の主イエスは、神さまが約束された救いの計画が、主イエスによってもたらされたことをはっきりと示す出来事でした。その出来事を通して弟子たちは、罪の赦しを世界中に宣べ伝える証し人として用いられることになります。

 今を生きる私たちも、神さまから信仰をいただくことで、救い主イエス・キリストを信じ、一人ひとりが主イエスの証し人として立てられています。「証しする」というと、難しく聞こえますが、イエスさまを他の人に紹介するということが、「証しする」ということです。日本で毎週教会の礼拝に集う人数は、仏教の僧侶の数よりも少ないと言われていますので、主イエスを本当に知らない人が、まだまだ沢山おられるということです。  わたしたちは、イエスさまから託され、命令を受けて、イエスさまを紹介する者として、この世に立てられています。自分が良く知っている人をまだ知らない人に紹介する言葉が、いろいろあるように、主イエスを見知らぬに人に紹介する方法はいろいろあります。それぞれ置かれている場所で、ご自分の言葉で、ご自分の生き方そのものを通して、主イエスを照会する者として、神さまに用いていただきたいと願います。

今週のみ言葉「証しをするということ」

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。」           エゼキエル書 36章26節

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」
             ヨハネによる福音書 15章26節

 教会で、「証しをしてもらえませんか」と聞かれることがあります。すると、「いえいえ、私などとてもまだ、証しなどすることができません。」と言われる方がおられます。
 それでは「証し」は、いつ、どんな時であればすることができるでしょうか?

 「証し」とは、主イエス・キリストが、「この私」に働いてくださった、働いておられることを自分の言葉で伝えることです。話すことが得意な人もいれば、そうでない人もおられるでしょう。けれども、洗礼を受けてクリスチャンとなった方は、すべて、主イエスが聖霊によって働いてくださったので、クリスチャンとなったのです。使徒パウロが、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリント一 12:3)と言っているように、洗礼を受けた方はすでに御自身の生き方を通して、イエスさまが与えてくださった愛を、福音を伝える生き方をされています。  「証し」をお願いされたら、ぜひ、ご自身が生活の中でイエスさまを感じた時のことをお話しください。お一人おひとりとのイエスさまとの出会い方、感じ方はには違いがありますから、その体験を話してくださることで、わたしたちは、互いに主の恵みを分かち合い、証ししあうことができます。その時に、イエスさまはわたしたちに、聖霊を送ってくださり、語る言葉を与えてくださるのです。主に祈り求めることで、このすばらしい恵みをいただこうではありませんか。