小さなコラム「人は何で生きるか」

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 マタイによる福音書4章4節
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」 申命記8章3節

 上に書いた聖書の言葉は、非常に有名な言葉です。では、だれがこの言葉を言ったでしょうか? 福音書の言葉は、イエスさまが言われた言葉だと、多くの人は気が付くでしょう。では、申命記に書かれている言葉は誰の言葉か? 申命記は、モーセが自分の命が終わる前に、イスラエルの民がこれから約束の地、カナンに入る前に残した言葉として書かれました。つまり、申命記の言葉はモーセが残した言葉です。モーセは、イスラエルの民が40年の間、シナイの荒れ野を旅した時、神さまが天から与えてくれた食べ物(マナ)を取り上げて、これは、口から入って生命をつなぐものであった。そして、それは、神さまが与えるものが、人の生命をつなぐものであることを教えるためであったと言っています。
 わたしたちの身体を生き続けさせるためには、栄養となる食べ物が必要です。そして、神さまからその身体にいただいている「霊」。「魂」が必要とする栄養は、主の言葉。聖書の言葉であると言えるでしょう。

 いつの時代であっても、困難な状況から救い出し、希望と力を与えてくれるのは、主の言葉。聖書の言葉です。一日、一日、主の言葉を読み、その言葉に示されている神さまの愛、憐れみ、罪の赦しを受けて、生き生きと生きる者とさせていただきたいと願います。

今週のみ言葉「くじが持つ意味」

「アロンは二(ひき)()山羊(やぎ)についてくじを()き、一(ぴき)(しゅ)のもの、()の一(ぴき)をアザゼルのものと()める。」   レビ記 16章8節

二人(ふたり)のことでくじを()くと、マティアに()たったので、この(ひと)が十一(にん)使徒(しと)仲間(なかま)(くわ)えられることになった。」
                   使徒言行録 1章26節

 わたしたちが、「くじ」と聞くと、当たる可能性があるかどうか、不確かな物のように思えるのではないでしょうか?確かに、私たちが生活の中で出会う「くじ」は、商店のくじ引きの「くじ」や、宝くじのような、当たる可能性が低い「くじ」のことを思い浮かべるでしょう。これらの「くじ」は、偶然の確率によって、当たりを引き当てることができます。

 それに対し、書に書かれている「くじ」は、くじを引いた結果に、神さまの意志が働く「くじ」です。神さまに献げる最上の物が2つあって、どちらか選ぶことができない時に引く「くじ」。また、熱心に主に従う弟子の内、どちらを使徒として立てるかを決める時に引く「くじ」。人間の意志では決めかねることを、正しい判断に委ねる時に、聖書では神さまの思いが示されるように、「くじ」を引きました。

 わたしたちが、信仰生活を続ける中で、判断に迷ったり、先に進めばよいのか、まだ立ち止まった方がよいかを迷う時、自分の思いだけで先に進むことはないでしょうか。そんな時、聖書は、神さまの思いを伺うために、まず祈り求めなさいと教えています。神さまはすべてをご存知ですが、この世で迷いを持つ私たちが祈りを献げる時、必ず最も良い答えを与えてくださいます。願ったとおりの答えそのものでなくても、後から振り返ってみた時、あの時、祈って判断できたことが良い結果につながったと思えることがあるでしょう。  わたしたちは、最善を尽くした上で、神さまのみ心に聞く「くじ」を引きたいと思います。

今週のみ言葉「聖霊が働いてくださる」

(かみ)(したが)(ひと)信仰(しんこう)によって()きる。」 ハバクク書 2章4節

(はじ)めから()いていたことを、(こころ)にとどめなさい。(はじ)めから()いていたことが、あなたがたの(うち)にいつもあるならば、あなたがたも御子(みこ)(うち)に、また御父(おんちち)(うち)にいつもいるでしょう。これこそ、御子(みこ)がわたしたちに約束(やくそく)された約束(やくそく)永遠(えいえん)(いのち)です。」
               ヨハネの手紙一 2章24、25節

 私たちが、神さまを信じる、信仰するとは、どういうことでしょうか?

 ありがたいもの、不思議なもの、力あるものを崇め祭るということではありません。決して変わることがない、力あるもの、信頼できるものに寄り頼み、その方の、み守りの中に入れていただきたい。ということが、「信じる」ということを表す一つの表現でしょう。そして、守られるだけでなく、この世での生命も、この世での生命が終わった後も、確かなものによって生き続けたいという願いが、「信仰する」ことではないでしょうか。

 「信仰の父」と呼ばれているアブラハムは、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)とあるように、主から与えられた信仰によって、義(正しい人)とされて、彼の子孫すべてが祝福を受け、神さまにつながる者とされるようになりました。  この世界を創られ、支配されている、決してゆるぐことのない方を信じることは、「信じさせていただく」ということであり、その信仰は、神さまからわたしたちに、主イエスによる十字架の恵みを通して与えられるものです。神さまが私たち人間の歴史の中に入ってきてくださり、この大きな恵みを与えてくださったことの感謝を忘れずに過ごしたいと思います。

今週のみ言葉「求めることと極めること」

(しゅ)(ひと)一歩(いっぽ)一歩(いっぽ)(さだ)め 御旨(みむね)にかなう(みち)(そな)えてくださる。」                詩編 37章23節

「あなたはこれらのことを()けなさい。正義(せいぎ)信心(しんじん)信仰(しんこう)(あい)忍耐(にんたい)柔和(にゅうわ)()(もと)めなさい。」
              テモテへの手紙一 6章11節

 すでに洗礼を受けられた方は、どのようにして主イエス・キリストと出会われたでしょうか? そして、洗礼を受けた後、どのように過ごしてこられたでしょうか?

 イエスさまから罪の赦しをいただいて、永遠の生命に至る道を歩むためには、洗礼を受けなければなりません。そして、洗礼を受けることで、信仰が完成するのではなく、そこから信仰の道を新しく始めると言っていいでしょう。

 わたしたちが、この世で何かを極めよう、求めようとするとき、それに至る道、手順を踏まなければなりません。簡単に手に入れることができるものであればよいのですが、なかなか手に入れることが難しいものは、時間が掛かりますし、高度に専門的なことや、職人技のようなものは、どれほど追い求めても、これで完成したということができないものが多くあります。

 信仰の道を歩むことは、この世で何かを極めることと違いますが、この世での歩みを終えるときまで、求め続けて行くものです。その理由は、人はどれほど年数を重ねても、自分だけの力では罪から逃れることができないからです。  そこで、神さまはこの世に主イエスを送ってくださり、主イエスを通して、信仰の道を歩み続けることができるようにしてくださいました。すべてのよいものは、神さまから主イエスを通して、わたしたちに与えられます。そのことに気が付き、主が備えてくださった道を歩み始めることが、信仰のスタートラインに立ったと言える時でしょう。

今週のみ言葉「聖霊が与えられると」

「その()以来(いらい)(しゅ)(れい)(はげ)しくダビデに(くだ)るようになった。」
                 サムエル記上 16章13節

「すると、一同(いちどう)聖霊(せいれい)()たされ、“(れい)”が(かた)らせるままに、ほかの国々(くにぐに)言葉(ことば)(はな)しだした。」    使徒言行録 2章4節

 聖書に書かれている神さまの呼び方で、「聖霊」という呼び方は一番なじみがない呼び方ではないでしょうか。また、教会に来たばかりの人は、何かよく分からないものだと思われるかもしれません。

 「聖霊」は、天の父なる神さまと同じように、わたしたちの目で直接見ることはできません。しかし、「聖霊」が働く時、その働きを直接目にすることができます。聖書で「聖霊」、主の「霊」が人間に与えられると、その人は神さまから伝えられた言葉を話したり、イエスさまが教えられた福音を話すことができるようになります。それは、人間が学んだ限りある知識では決して理解することができない、神さまの愛、救い主イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の生命。これらのことは、「聖霊」が与えられることで、確信を持って理解することができ、また、他の人に伝えることができるようになると、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一 12章3節に書いています。

 使徒言行録2章3節では、聖霊が目に見えるような形で弟子たちに与えられました。そして、弟子たちが主イエスから教えられた福音を、聞く人々すべてが理解できる言葉で話したことで、聖霊が確かに降ったことが分かりました。  わたしたちも、イエスさまを救い主として信じることができるように、確信を持って希望を抱き続けることができるように、聖霊が与えられるように、と祈り続けたいと思います。