十字架上の七つの言葉 Ⅶ

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」           ルカによる福音書 23章46節

 最後の言葉。私たちがこの世での生を終わる時、どのような思いであったとしても、死のその先に自分を委ねる方がおられる。ということほど、平安を与えられることはないでしょうか。
 主イエスの人生は、すべてを父なる神さまに委ね、神さまの御心のままに歩まれた人生でした。神さまであり、人である方だから、そうできるのでしょうと、言われる方がいるかもしれません。けれど、人であるということは、恐れの、悩みの、苦しみの感情を持っておられた方ということです。

 私たちと同じように感じる感情がある方が、十字架刑を宣告する裁判であれほど落ち着いておられ、また、十字架の上で、敵を愛する言葉をかけることができたのは、すべてを父なる神さまにお委ねしていたからではないでしょうか。
 旧約の詩編の中に、詩人が夜眠る時、神さまに霊を委ねます、という詩があります(詩編  31編)。目を覚ましていても、私たちは死に抵抗することはできませんが、眠っている時はなおさらでしょう。夜眠り、再び朝起きることができることは、絶対確実なことではないのです。それで、ユダヤ人は夜眠る時、自分の霊を神さまに委ねますという祈りをして眠ったのです。

 主イエスの十字架も復活も全て父なる神さまに委ねられた結果、起きたできごとでした。そして、委ねられた結果として、主イエスは栄光を受け、天に昇られたのです。神さまにご自身を委ねたことで、死に勝利されたのです。

 わたしたちも、主イエスに倣い、自分自身を神さまに委ねる者となることができるように、祈っていきたいと願います。

十字架上の七つの言葉 Ⅵ

 「成し遂げられた」   ヨハネによる福音書 19章30節

 六つ目の言葉。この言葉は、口語訳聖書では、「すべてが終わった」と訳されていました。私たちが、この世での生を終わる時、どのような思いでこの世から去っていくのでしょうか。
 まだまだ、この世に未練がある。もっと生きたい等。もちろん、すべての人が、この世に未練を残して行くのではないでしょうが、自分の人生を全うして、この世を去ることができると言える人が、どれほどいるでしょうか。

 イエスさまのこの言葉は、神さまのご計画を、ご自身が人々に伝え、そして、十字架でご自身を罪の贖いとして献げることができたという事実に基づいています。神さまが計画なされた、私たち人間を救うための具体的な行いが、十字架によって完成された。ということを言われたのです。

 神さまによる救いの計画は、十字架と復活の出来事によって、死に勝利するという形で完成されました。しかし、完成されたと言っても、私たちが何もしないで、その救いに与るということではありません。イエスさまの十字架と復活の出来事の時から、神さまと私たち人間の新しい契約が始まりました。

 この世の終わりに、イエスさまが再びこの世に来られて、この世を裁かれる時まで、私たちは、いつでも、神さまの憐れみにより、罪を赦され、救いへと導かれる時が準備されている。私たちのところに、神さまのご支配、神の国が到来しているということなのです。

十字架上の七つの言葉 Ⅴ

 「渇く」    ヨハネによる福音書 19章28節

 五つ目の言葉。主イエスが、十字架の上で死を迎える前に語られた言葉。人が死を迎える時、単に肉体的にのどが渇いたと言われたのではありません。聖書では、この言葉に続けて、「こうして、聖書の言葉が実現した。」と書かれています。
 「聖書の言葉が実現」するとはどういうことでしょうか。それは、旧約聖書全体を通して、私たちを罪から救うために働かれてきた神さまのご計画が主イエスの十字架の出来事を通して、完成したということです。

 主イエスが、十字架に架けられ、肉体的な苦しみを受けられたということ。これは、この世の始めから、救い主がこの手順を踏まなければ救いが完成されないと、こと細かく決まっていたということではありません。主イエスは、十字架の上で死を迎える最後まで、父なる神さまの御意志に従順に従われたということです。
 そして、死を迎える者が渇きを覚えるのは、肉体的なのどの渇きだけではありません。主はこの場面で、呼んでも、叫んでも、応えてくださらない神さまとの断絶。神さまがあたかもおられないかのような状況に、霊の渇きを覚えられたのです。
 私たちが、人生の中で、つらく苦しい時、神さまを求めても、何も与えられないかのように思えるつらさ、苦しさ。それらのものすべてを主イエスは十字架の上で負われたので、「渇く」という言葉を言われたのです。
 
 主イエスの言葉は、そのまますべての人が、神さまを求めて「渇く」と叫ぶ言葉を代弁したものでした。主イエスのこの苦しみがあるがゆえに、私たちは、どれほどつらく、苦しい中にあっても、主イエスによって救われる希望を失うことはないのです。

十字架上の七つの言葉 Ⅳ

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」        マタイによる福音書 27章46節

 四つ目の言葉。十字架の上で話された言葉の中で、この言葉以上に、神さまから見放され、悲しみ、苦しみの中に置かれている状況を表すものはありません。

 クリスチャンにとって、十字架は救いの象徴ですが、私たちがどれほど悲惨な状況、苦しみの中にあっても、救いを受けることができるのは、主イエスが十字架の上で、惨めな姿で、神さまから見放され、陰府に下るということをなされたからです。

 神さまから見捨てられ、見放されること。これ以上の絶望はありません。本当は、私たち人間が、罪のゆえに、その状況に置かれなければならないのに、その身代わりとして、主イエスがすべての人の罪を担ってくださった。
 これは、私たちの罪がどれほど重いものであるかを物語っています。神さまの裁きがそれほど重いものであるが故に、私たち人間はだれも、罪の重さを負いきることができない。だから、神さまであり人であるイエスさまが、人としてその身に、深い苦しみを負ってくださった。
 そうであるからこそ、神さまはイエスさまを陰府から引き上げ、復活させ、栄光を与えてくださったのです。

 イエスさまが十字架に架けられた時は、悪が力を振るう時でした。しかし、その力は神さまによって克服され、永遠の勝利へとつながって行ったのです。